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【エッセイ】おばあちゃんのひげ

夢の中で亡くなった祖母に会った。お盆の季節なので、帰ってきたのかもしれない。

夢の中の祖母は、ぼーっとしていた。
このぼーっと、というのは祖母が重い認知症になってからよく見た姿だった。うつろな目で前を見つめる祖母は、表情こそぼーっとしていたものの、装いは元気だった頃によく着ていた濃い紫の厚手のカーディガンだった。

この元気な頃の服装に、元気じゃなかった頃の表情というのがなんとも印象に残った。頭髪も、精神病院に入院してまばらになった白髪ではなく、おしゃべりだった頃の山盛りの黒髪だった。

場所は車の中で、母が運転し、祖母と私が後部座席で並んで座っていた。

夢の中でかける言葉が見つからなかった。祖母は認知症なのか、それともそれ以前の状態なのか分からず、でも何か話そうと「あ……」と口を開いた途端、「おばあちゃん、もう何言ってもわかんないでしょ」と運転席の母が先に話していた。うつろな表情の祖母は、そんな母の運転する背中を、いや、その向こうのただ前の空間だけをじっと見つめていた。

認知症になる前の生前の祖母はおしゃべりだった。ただ、話題というものはとても限られていて、孫である私をほめちぎるような内容か、近所の人間関係の愚痴だった。母は祖母と私をよくドライブに連れて行ってくれた。そういうドライブの日には、おおよそ祖母が母に、近所の〇〇さんは金にがめつくて……だの、お父さんが××さんに土地を譲らなければ……だのと、近所の愚痴を抑揚のある大きな声で喋っていた。

私は祖母が大好きだったが、どうしてもこの愚痴話は好きになれなかった。欲しい本やゲーム、おもちゃ、なんでも買ってもらえた幼少期だった。孫の私に超がつくほど甘く、可愛がってもらえた。

孫に優しいという気質とは対照的に、祖母は非常に打算的な人物でもあった。金の話になると途端に饒舌に、まくしたてるような話し方をする。祖母の家には幹の太った金のなる木が飾ってあり、祖母の財布の中にはいつも金運上昇のための金の亀のお守りが入っていた。人生で一番大切なものはお金と豪語しており、私が幼稚園の頃に将来は画家になりたい、と言うと、そんなもん金にならないからやめなさい、医者になりなさいとまくし立てた。

体裁に気を使う人でもあり、少しのドライブでもきっちりと身なりを整える人であった。ワントーンでまとめられた装い(たいていは黒か濃い紫、藍色などの暗い色)に真珠や琥珀のネックレスを下げ、手はきつく腰の前に重ねて、店に入ると店員に冷ややかな一瞥をくれた。しっかりした祖母であった。

しかし認知症になってからというもの、そのしっかりとした部分は、まるでなまくらの刃物で削られていくかのように失われていった。母に何時間おきかに「寂しい」「死んでやる」「どこにいるの」といった電話をよこし、それが母のみではなく、そのほか親戚や父方の祖父母にまで及ぶようになると、母は祖母を病院に連れていき、入院が決まった。

入院が決まってから、病気の進行は早かった。最初は早く家に返してくれと暴れていたものの、やがて言葉の数が少なくなり、言葉はただの声に、声は音に変わり、瞳に宿った生気はどこかに消えた。その瞳で母を見ることも、孫を見ることもなくなった。

黒々とした髪はやがて白髪ばかりになり、そしてその白髪の隙間から大きく地肌が覗くようになった。他人に冷ややかな一瞥をくれたその目は落ちくぼみ、瞼の肉が垂れ下がり目やにが埋もれていた。また口紅を欠かさなかった口元は、白と黒の入り混じる濃いひげがそのまま放置され、赤子がおしゃぶりを舐めるように、自身の唇を常に舐めていた。

この認知症の期間が長くなればなるほど、私はしっかりしていたころの祖母が思い出せなくなっていた。それがなんとも不思議だった。認知症になる前の記憶の方が長いはずなのに、私の記憶の中の祖母は、うつろな目で母がこっそり懐に隠して持って行ったチョコを、歯のない歯茎で撫でるように食べる姿へと塗りつぶされていった。

そうして何年も過ぎたのち、祖母は亡くなった。亡くなった実感が当時は湧かなかった。祖母が認知症になったそのころに、もう祖母の魂はどこか遠くに行ってしまったのだと私は考えていたからだ。

遺影の中の祖母は、あの頃の元気で打算的でしっかり者のままだった。遺骨はか細く残るばかりで、手術で入れたのであろう人工骨頭の方が、その存在感を大きく放っていた。母は、しばらく介護をろくに手伝わなかった親戚への恨みと遺産相続の手続きと格闘したのち、疲れた顔で日常に戻ってきた。そして認知症になったらすぐ施設にぶち込んでくれ、と私によく話すようになった。

夢の中の祖母は、もうそんな認知症の頃のみすぼらしさを全く見せず、ただ表情だけがぼーっとしており、これは私の深層心理でも表しているのかなと思った。私に優しく、そして打算的で、しっかり者であった祖母が、私は大好きだった。でも、その分、金や人間関係に悩まされることの多い祖母であった。夢の中の祖母は全く話をしなかったが、その理由が話す愚痴が何もないからだと良いなと思う。さすがにあの世でも、人間関係やら金やらに悩んでほしくないのだ。

夢から覚めるといつもの日常で、セミの声がけたたましく窓の向こうで鳴り響いている。ただ、口元を手で触れた時、唇の上の部分に何か違和感があった。その違和感の元である少しごわごわした、か細い手触りのそれを勢いよく引っ張った。そこには濃いひげが一本、私の手元に残されていた。

普段は生えない箇所にできたひげ。それが、かすかな祖母のいたずらのような気がして、私は手に残ったひげを、ごみ箱に雑に放り投げた。そして「暑い暑い」とこれまた高そうな生地のハンカチで汗をぬぐう祖母の姿を思い出して、現世に帰ってきた祖母の旅が良いものであるようにと願った。

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