
「幽囚の心得」第18章 幸福論(2)
アルトゥール・ショーペンハウアー曰く、
「人間の幸福なあり方、否、人間にとって生き方全体にとって主要なものが人間自身の中に存するもの、人間自身のうちに起きるものだということは明らかである。」
「人のあり方は、人の有するものや人の印象の与え方よりも、人の幸福に寄与することがはるかに大である。どんな場合にも肝心なのは、人のあり方、従って人の本来有するものである。蓋し、人の個性は終始一貫どこまでも人に付き纏い、人の体験する事物は全て個性に色どられる(彩られる)からである。あらゆる点で、また万事につけて、人のまず享受するところのものは自己自身である。」
「人の内面のあり方と人の具有するもの、つまり人柄と人柄の価値とが、人の幸福安寧の唯一の直接的な要因である。それ以外のものはすべて間接的である。」
「最も久しきに耐えるものは、人の本来有するものである。人の本来有するものこそ、幸福の真の源泉、唯一の永続的な源泉である。」
つまり、「幸福」というものは、真の意味でのそれは外部的なものではなく内部的なもの、精神的なものからしか生じ得ないのである。外部的作用が「幸福」に寄与する場合があるとしても、それは必ず内部的なもの、精神的なものを媒介してそこに至る。その意味で外部的作用というものは飽くまで二次的・間接的なものに過ぎない。「幸福」というものは世間がこうだからそれに比して云々という外部的な作用によって認められるべきものではないのである。
そして、「幸福」が内部的作用から認められるものである以上、その内部的な精神的能力が高度なものであればあるほど、我々の「幸福」はそれだけ大きくなると言うことができる。
ショーペンハウアーは言う。
「普通の人間は事、人生の享楽となると、自己の外部にある事物を頼みにしている。財産や位階を頼みにし、妻子・友人・社交界などを頼みにしている。こうしたものの上に彼にとっての人生の幸福が支えられている。従ってこうしたものを失うとか、あるいはこうしたものに幻滅を感じさせられるとかいうことがあれば、人生の幸福は崩れ去ってしまう。このような人間の重心は彼の外部に落ちる。」
外部的なものは一時的、刹那的で、不確実で儚く、偶然によって左右される可変的、流動的なものである。このような外部的作用から生ずる享楽は長続きはせず、その断絶の狭間に虚無という漆黒の闇が現れる。
外部的作用にのみ依拠している世の平均人はその闇が恐ろしくて、その隙間を埋める為、刹那な外部的作用を再び求める。彼らの生活はその浅薄な所為の連続で成り立っている。そのような彼らが自らを誤魔化し錯覚に陥らせ、虚無の空間に身を置く恐怖から逃れる為に「慎ましい幸福」となる仮想空間を演出するのだ。
ショーペンハウアーはここでこのような平均人を「俗物」と称し、その様について以下のように峻烈に評する。それは誠に正鵠を射たものであると思料するのだ。
「俗物とは精神的な欲望を持たない人間である。」
「俗物にとっての現実の享楽は感能(感応)的な享楽だけである。即ち感能(感応)的な享楽によって填(う)め合わせをつけているわけである。」
「しかし、どんなことをしてみたところで、精神的な欲望がないために精神的な享楽ができないのであってみれば、退屈凌ぎの目的を十分に達することはできない。そして、感能(感応)的な享楽は忽ち底をつく。」
「すべて俗物どもの大きな悩みは、理想によって慰められることがなく、退屈から逃れるのに必ず現実を必要とするという点である。即ち、一方には現実は忽ち底をつく性質のもので、そういう場合、現実は慰めになるどころか、却って疲労の種になるのであり、他方現実はありとあらゆる災いをもたらす性質のものである。」
動物的な欲というものは「認識」を圧してしまうというのが、これは「俗物」の低級さを表す性質の最たるものである。
「俗物」は仮想空間の中で価値の薄い付け焼刃の目的を取り敢えず設定し体裁を整えようとするが、その目的は極めて浅薄なものでその目的設定の実質的意義は極めて乏しいのが常態である。それ故、自身の内から不断に行動と精神に活力を生み出すことなどなく、常に空疎なる時間を排出し続ける。已む無く「俗物」たちはあらゆる娯楽と遊興を取り入れることで暇と空疎な時間を潰そうとする。
思うに、いわゆる娯楽と遊興というものは、大方、「生活」を自身の人生に近いものとして位置付けることのできない人間が必要に駆られて生み出した観念である。ここで狭義における「生活」とは、自分と自分の家族の生存に必要な糧を得る為の営みとその糧の消費のことであるが、その作業に何らの精神性も見出すことの出来ぬ人間が、これに費やす時間とは別異のそこから逃れる為の娯楽、遊興という観念とその時間を必要とするのである。言うまでもなく、そのような人間こそ「俗物」と称される低俗なる存在であって、上記の「生活」も娯楽、遊興も本来、人生の営みとして同質性を有しているというその意義を全く看過している愚者であるのだ。
さて、「俗物」の目的的特性の薄い「生活」も一時避難場所である娯楽、遊興も、いずれもその根本に形而上の価値を見出していないものである故、必然長続きはしない。何らの動機も働かぬ彼らにおける認識は全く停止してしまい、その結果、思想を有さない故の恐ろしいまでの空虚に苛まれることになる。退屈とは、このような時間の空虚に対する恐怖のことをいうのだ。
この退屈という観念は「俗物」に特徴的なものである。賢者は退屈とは無縁である。退屈を感ずる者は自身の「俗物」性を疑うべきだ。
「俗物」は「慎ましい幸福」という虚構で自らを覆いその殻に閉じ籠る。世間並みの人生と「生活」を人間としての「成熟」などという言葉で装うがそれは全くのまやかしである。大抵の場合、世人が使用する「成熟」という語は「俗物性」を意味するものでしかない。