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「幽囚の心得」第21章                                      刑事政策の意義と刑罰の正当化根拠(1)                                                「矯正教育の現場ではある種の思想教育こそ必要である」

 「刑罰とは国家によって行われる最大の人権侵害行為」に他ならず、もとよりこれを科するには、その正当化根拠を要することは当然である。

 刑罰の正当化根拠に関する学説は、大きくは①刑罰は犯罪を行ったことに対する報いとして科されるのであり、それ自体が正義に適うが故に正当化されるとする「応報刑論」、②刑罰は犯罪を防止する為に科するものであり、犯罪の防止効果があるが故に正当化されるとする「目的刑論」に分かれるが、これらをいずれか一方に限定して捉えるべきではなく、その両方を正当化根拠として認むと解することが妥当である。

 なお、「目的刑論」における犯罪防止の内容には、「一般予防」と「特別予防」が存する。「一般予防」とは、社会一般に対する刑罰による威嚇に基づく犯罪抑止効果を内容とするものであり、「特別予防」とは、実際に刑罰を科される個々の犯罪者自身が将来罪を犯すことを防止しようとすることを内容とするものである。「特別予防」は、具体的には犯罪者の改善更生の結果としての再犯防止を意味するが、より広くは犯罪者を社会から隔離することによる犯罪防止の効果を含む。

 犯罪者の改善・更生・社会復帰を志向する社会復帰思想を徹底追求すると、犯罪者をある意味で病人と捉え、刑罰を科すことによってその病気を治療するという考えに至ることになろう。いわゆる「医療モデル」であるが、そこでは不定期刑がより適合するであろうし、また改善の度合に応じて実施される仮釈放について、残刑期間とは離れてパロール(保護観察)の期間を設定するということにもなる。しかし、これが国民の自由権を過度に制約することは否めず、それ故、理念としては理解し得ても、その一方の価値に偏ることは危険であり実際的ではない。
 あくまで刑罰はその行われた犯罪行為とその行為によって発生した法益侵害の結果に対する責任に相応するものでなければ、正義と公正に悖ることになる。
 犯罪と刑罰は均衡がとれていなければならない。結果、受刑者の処遇の目的は、この応報としての均衡を認め得る責任の範囲内での改善・更生・社会復帰にあるということになる。

 1955年に第1回国連犯罪防止及び犯罪者処遇会議において決議された被拘禁者処遇最低基準規則は、拘禁刑の第一次的な目的は、犯罪から社会を守り、再犯を減少させることにあるとした上で、「この目的は犯罪をした人々が遵法的かつ自立的な生活を送ることができるように、釈放時においてこうした人々の社会への再統合を可能なかぎり確保するために、拘禁期間が利用される場合にのみ達成されうる」としている(4条1項)。
 我が国においても、刑事収容施設法は第30条に「受刑者の処遇はその者の資質及び環境に応じ、その自覚に訴え、改善更生の意欲の喚起及び社会生活に適応する能力の育成を図ることを旨として行うものとする」と規定している。
 いわゆる教育刑としての意義を重視するものであり、反矯正思想の立場を採らないことを宣明したものである。

 なお、ここで問題となるのは、改善・更生・社会復帰というものの内容如何である。
 一般の論は身柄解放された後、再犯を犯すことなく、自立的な生活を送ることができるよう受刑者の意欲を喚起し、受刑者にその能力を持たせることであるとするが、私はこの点については、やや異論がある。それでは矯正教育の内容としては足りないのだ。自由主義の価値に鑑みて受刑者の内面の考えに過度に踏み込むことに抑制的であらんとすることはよく理解できる。
 しかし、同衆と接して感じるのは、自らの虚無感に苛まれた心の苦悶を脱しこれから逃れる為に短絡的に刹那的享楽や物質的・金銭的満足を得ようとした結果が犯罪として現れる場合が多いということであり、そうした皮相なる振舞いは確固たる内的な基軸、如何に生き、そして死ぬべきかという思想が全く脆弱であることが原因であると考えられるのである。

 それ故、私は矯正教育の現場では、むしろある種の思想教育こそ必要であると思惟するようになった。人間どうあるべしということを悟らせるには、どうしてもその者の内面に分け入る必要があるはずなのだ。特定の価値観の押し付けはよくないとか、思想良心の自由は内にある限り放おっておいてもらう権利があるだのと観念的な論によっては、矯正教育など叶うはずがない。四書五経などの古典を読んだり、哲学を学んだり、現在も任意で受けることができる宗教教誨等の機会で徳を身に付ける為の学びを促がすことは、決して偏った思想を強制するものではなく、内心の自由を侵害するものでもないはずである。歴史の中で現代においても価値が広く認められているこうした先哲の思想を学ぶことは、むしろ善良なる人格形成に絶対に必要なものなのだ。「人間学」ともいうべきこうした徳育の志向こそ矯正教育に不可欠の要素であると言わねばならない。

 社会復帰思想はいわゆる「自由刑純化論」、即ち、自由刑の内容を自由の剥奪、拘禁にのみ止めるべきとする論から批判を受けてきたが、この論は自由の概念を権力からの自由に偏ってこれをのみ強調する考えに依拠したものであり、今日的な自由概念の捉え方として適当であるとは言えない。
 自由とは自律の意味であって、俗人が観念するような野放図な絶対的自由なるものはそもそも世に存在し得ぬものである。

 受刑者に対する矯正処遇は、受刑者が自由というもの、自由の本質は自律であるという実質を正しく捉えられず、またこれを正しく行使し得ず、自己を律し切れなかった故に、自律を果たし得なかった者に対する対応において、「限定されたパターナリスティックな人権制約」として科されるものと解すべきである。

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