「幽囚の心得」 第5章 「非日常性」に身を置く(4)
私は以前から、「非日常性」というものが現代社会において重要な意味を持つと思惟していた。
冗談のような話を紹介すると、私は参加していた「覆面マニア」という覆面レスラー(マスクマン)ばかりのプロレス興行で、エプロン幕に、“時代を変えるキーワードはマスクだ!”というコピー文句を掲げていた。マスクマンという「非日常性」の存在に変革の象徴としての役を担わせ、思いを表現したものであった。この日曜日の昼に開催されるイベントのよさは家族皆で笑顔で訪れ、家族皆で笑顔で帰る姿にある。それは弁護士の業務の中では出会えない風景であった。
先に「非日常性」はしばしば狂気を孕むものだと述べた。例えば、会社創業者などはほぼ狂人だと思って間違いない。彼らの設立及び開業行為に至る過程は、それを企図する以前の「日常」との比較で言えば、明らかに「非日常」そのものであろう。多大なるリスクを負って勝負に挑む彼らは、平凡な“常識人”からすれば狂人にしか見えまい。狂人が生きる時間的空間は凡夫のそれと比して、「非日常」の異空間である。
私は、この「非日常性」の時間的空間の中にこそ、より自身の生命の息吹を感じる。生きている実感がより感ぜられる。同調してもらわなくて構わないが、平々凡々とした「日常」は生命との距離がやや遠いと思う。「非日常性」の時間的空間の中にある時、人は生命に近いところにいる。人は生命に近いところにいる時、より活発に行動し、潜在する能力を発揮する。創造性を豊潤なものとする。「非日常」に生きる者こそ、新たな「日常」を創造するのはそうした理由による。
「非日常」を経験することで、人は胆力が錬磨され本物になる。生きるとは魂を磨くことだ。「非日常」は魂を磨く場所である。
成熟社会では「非日常」に身を置く機会も少ない。そもそも「非日常」を経験しないまま人生を終えることもできる。しかし、生命から遠いところで、その息吹を感ずることのない人生というものは如何にも意味が薄く味気ないものではないか。
私は受刑という「非日常」を経験し、より自身の「非日常性」の性質を色濃くし、且つ、この「非日常性」を善用し、魂を錬磨し続けることで、より豪胆なる人間として蘇生されていくのである。