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「幽囚の心得」第14章                自由論(1)

 討論に堪えるだけの知見を持ち合わせておらず、真摯なる思索の積み重ねの過去も習慣も有していない人間が昨今の日本人には極めて多いのだ。
 討論を回避し他を沈黙させる者は自らの無謬性を前提としている。否、したがっている。それでも当然、何某かの自分の考えらしきものを持たないということはないのであるが、では深慮せず熟考によらない軽薄なそれら考えらしきものの無謬性を支えているものは何かというと、それはただ周囲にいる人間が皆自分と同意見だからという空疎なるものに他ならない。周囲の人間がそう思っているからという理由の中には、世間一般の無謬性が前提とされているのだ。そのような自分たちの無謬性の信仰者の理論によらない低劣なる意見が大衆社会において多数派を形成しているのが、現在の日本社会の惨状であると言える。

 しかし、最も賢明なる意見というものは他者からの反論に対して開かれ、そこに理がある限り訂正されるという可能性を有しているものでなければならない。そもそも議会制民主主義が前提としているものは、熟考の上の異なる意見、偏見をぶつけ合い、議論を弁証法的に発展させていくことでより賢明なる結論に到達せんという思想にある。そして、その目的がより真理に近づく結論に至るということにある以上、議論に参加する当事者も個々それぞれが不断に研鑚を積み、個々の意見を修錬していかねばならないはずなのだ。
 にも拘らず、これを怠った反知性人が自らの劣った頭でも理解できるような政治をしろなどという駄弁を弄しているかのような現代日本社会の醜状は極めて嘆かわしい限りである。民主主義の危機はこうした状況から生まれているのだ。

 近代自然権思想の下で、人権の基本であり中心は自由権であると言ってよい。いわゆる「権力からの自由」と言われるものであるが、人間は生まれながらに前国家的な権利としての人権を有しているのであって、その権利は権力から干渉を受けない私的な領域として確保されねばならないとされる。

 尤も、この論理のみを極端に貫けば、個人は自己の私的領域の中で自己の利益のみを追求するという全くの利己主義へと繋がる危険が存することも指摘せねばならない。
 しかし、民主政の下で権力とは単なる個人の私的領域に干渉し自由を侵害する危険の存する「他者」ではない。この視点は極めて大切だ。
 ジャン=ジャック・ルソーは「自由とは自身の意思に従うことである」とする。民主政における自己統治の価値がこれを現すと言えよう。つまり自身の人権を制限することができるのは自身のみであるという思想に基づくものであって、代表制民主主義においては選挙を通じて選出された議員の意思によって政治が決せられることに自己の意思による人権制限の実現を擬制しているのである。
 このような意味での自由は「権力への自由」と言われているが、これは「自由」の内容を考察したとき、公共的決定に関する意識と公共心を失った現代日本人にとって極めて重要な意義を有する概念であると言うことができる。
 私は現代日本においてはこの「権力への自由」、ルソーの言うところの自由を自身の意思に従うことと解する観念こそ重要なるものとして見直さねばならないものと思料するのである。
 
 福澤諭吉は『学問のすゝめ』において、「一身独立して一国独立する」と説いている。ここに「一身独立」とは、「自分にて自分の身を支配し他に依りすがる心なき」ことを意味し、このような国民一人一人の意識をもって一国は独立して立つということである。個人主義が利己主義に堕することなくこれを肯定的に捉られるためにはこの「一身独立」の精神を個人主義概念に包摂したものと解することができなければならない。


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