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「幽囚の心得」第16章                           正義論(1)

 「正義」という概念を如何に解するかについては様々な見解があり一様ではない。しかし、もとより私利、私益に関わる私的主張の正当性を表さんがために「正義」の概念を用いるということが全くの誤用であることは明白である。私的主張の正当性の評価は相対的なものであるのがほとんどであって、絶対的正当性というものは観念しにくい。仮に正当性を観念し得たとしても、それは個別の場面における個別の行為について認められるものであって、当該人物の全存在的に認められるということはあり得ない。私が弟子の若い弁護士に対して「世に絶対的正義などというものは存しない」と常々伝えていた、その趣旨の一端はかくなるものであると言える。
 
 ところが、現代日本社会において、世に言われるところの「正義」なるものは、大抵の場合、単なる自己存在と自己主張の正当性を凡俗が自己擁護の為の仮装に用いたものであり、真の意味の「正義」ではない。

 このような受刑者という立場に堕した者であるから言うのではないが、刑事事件の弁護人として大切なことは「アクリル板の向こう側にいる被疑者、被告人を自分と種類の違う人間だと思ってはならない。自分が彼のいる環境と立場に身を置いたとしても、絶対に同じことなどしないと断言できる人間などいないはずである。」という厳然たる事実をよく知ることだ。
 私は弟子の弁護士たちにそう説いて来たが、どれほど彼らの心に届いていただろうか。自らの「絶対的正義」を自らに言い含めることで、自らが「善」であり綺麗な存在たることを気取り、他者に対する自分の優位を示すなどというのは、精神の惰弱な人間の為すことである。
 しかし残念ながら、現代の日本人は付和雷同して多数に付き、落度あると見られる者、自分たちとは異質と感ぜられる者を嬉々として大勢で責め立てるという陰険で始末に悪い性質に堕してしまっている。日和見主義で自らの思想、考えを持たない白痴で幼稚な人間が増えている嘆かわしい状況である。結局、他者の側に身を置くことをしないのは自らの精神の強さに自信が持てず、自らの殻に閉じ籠ることで我が身を守ろうとしているからであろう。全く情けないことだ。

 「お父さんは正義の味方なのよ。」
 私が初めて弁護士という職業の存在に触れたのは母のこの言葉によってであった。
 幼稚園に入園する年齢くらいになると、周囲の友人は「お父さんは会社に行っている」などと覚えたばかりの情報を声高に話したりするものだ。私はそれを聞いて母に尋ねたのだった。「お父さんは会社に行っているの」かと。それに対する母の答えが、「いいえ。お父さんは会社には行っていないわ。お父さんは正義の味方なのよ。」というものだったのである。その日から、弁護士である父は私の憧憬の対象となった。父は私に対して、よくこう言っていたものだ。「公彦、弁護士は格好のいい仕事ではない。どぶ川で半身浸って交通整理しているような、そんな仕事だ。」と。そう「正義」には体裁は関わらない。

 私は「正義」という概念は「公義」の趣旨で用いるべきものと考えている。私的主張を正当化したり、自己の精神の惰弱さを覆い隠す為に頼るべきものではない。
 また、この「正義」という崇高なるものは、トートロジーと評されるかも知れぬが、己れの中に理念・思想として確立された「正義」を貫くことをこそ言うものだと思う。大抵の世人は、自らに「正義」が存するかのように仮装していながら、それをすら貫くことの出来ない贋物ぶりを示している。その掲げるものが真の「正義」であれば、腰砕けになるようなそういうことは起き得ないのである。そもそも行為の道徳的価値は動機で決まるものであって、その動機が「善」たるものであることを要求するものである。

 イマヌエル・カントは、人が義務によって行動し、傾向性や自己の利益といった動機に抵抗するとき、人は初めて自由に自律的に行動していることになる旨述べている。ここでの義務はもとより他律的なものでなく、「こうしなければならない」という道徳的価値のことをいうものであろう。自己の個人的な利益の為にではなく、この「こうしなければならない」という道徳的価値によって導かれる義務の為に「善」なる行為をすることこそ、自律的なものと言えるのである。自律とは自己が内において受け入れ定めた道徳法則に従った選択を為すということであり、自らの選択による自由なる性質のものである。自由の本質は自律であるということは既に述べたところだが、自律とは「善」なる動機によって課される義務に従うことである。自由とは、道徳的価値に無縁のものではなく、むしろこれに規制されたものなのである。

 

 

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