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「幽囚の心得」第19章 死生観(6) 「武士の修養は禅と連携する」
武士の一分は美しく生き、美しく死ぬことにある。美しく生きねば、美しく死ねぬ。美しく死なねば、その生も美しくはない。美しく生きるとは、その結果ではなく精神の問題である。
それは公の為の至高至純の精神である。意図した結果が得られずとも、ともかくも身命を賭して行動することに重きを置く。行動第一主義を採る行動の結果としての犬死、無駄死との揶揄は禁じられている。犬死、無駄死になる故、行動しないという選択は認められない。そのような敗北主義は採らない。
武士道は形式美を重んじる。武士の生き方は常にこの形式美によって規定される。そして、武士道における形式美の最たるかたちは「切腹」である。「切腹」は武士が己れの一分を立たせ、後代の名聞を残す為の誉れある精神的営為であり作法である。
現代の大衆社会は他者の誇りや面目に対する配慮は大分軽視されているが、極めて低俗で下劣なことだと憤怒する。物質至上主義、損得哲学に穢れ、生にとって最も重んずるべき矜持というものを自身も失っているからである。己れの責任を身命を賭して果たすことに覚悟を決めた受刑者に対し、殊更に皮相な面罵をする地方更生保護委員会委員などもこの手のつまらぬ俗輩である。卑怯、姑息なる者であるならともかく、誠心をもって自身の罪業に対峙する者に対し、この者は理性によって刃を抜くことはないと悟ると、これを斬りつけて溜飲を下げるという汚穢には反吐が出る。この品性の無さが残念ながら現代のこの国の人間の文化的な程度を現わしているのだろうと思う。
楠木正成が湊川で足利尊氏の大軍を迎えようとしたとき、兵庫のある禅院にて和尚に尋ねる。
「生死交謝の時如何」
(人が生死の岐路に立った時は如何にしたらよいか。)
「両頭ともに截断すれば、一剣天に倚って寒し」
(お前の二元論を断ち切れ。一本の剣だけを静かに天に向かって立たせよ。)
仏教学者の鈴木大拙先生は、「この絶対的な『一剣』は、生の剣でも、死の剣でもない。そこから二元の世界が生じ、また、そこにおいて生死一切がその存在を持つところの、剣である。それは盧舎那仏自体である。これを把握するならば、路の岐れるところにおいて、いかに振舞うべきかを知るのである。」「剣は、いまや、宗教的直観の力や直進をあらわす。この直観は智力とは異なり、分離してそれ自身の通路を塞いでしまうことはない。うしろもわきも顧みないで前へ進む。」「『真実在の一剣』は幾多の利己心という犠牲(いけにえ)を切った後でも、摩滅するということをけっして知らぬ。」とされる(『禅と日本文化』)。
『葉隠』に有名な一句がある。
「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、死ぬはうに片付くばかりなり。別に仔細なし。胸すわって進むなり。」
(武士道の本質は、死ぬ事だと知った。つまり生死二つのうち、いずれを取るかといえば、早く死ぬ方を選ぶということに過ぎない。これといって面倒なことはないのだ。腹を据えて、余計なことは考えず、邁進するだけである。)
鈴木大拙先生は、「禅」が道徳的及び哲学的二つの方面から武士を支援したとされる。即ち、ここで道徳的というのは、「禅」は一度、その進路を決定した以上、振り返らぬことを教える宗教であるからであり、哲学的というのは生と死を無差別に取り扱うからであるという。「禅」は行動することを欲するので、その行動は一度決心した以上、振り返ることなく突き進まねばならぬ。
このような威容のある生を果たすためには、精神の鍛練は欠かせない。鈴木大拙先生は『葉隠』を引いて、「この書は、いつにても身命を捧げる武士の覚悟を極めて強調し、いかなる偉大な仕事も狂気にならずしては、すなわち、現代語で表現すれば、意識の普通の水準を破ってその下に横たわる隠れた力を解放するのでなければ、成就されたためしはないと述べている。この力はときとして悪魔的であるかも知れぬが、超人間的であり、すばらしい働きをすることは疑えぬ。無意識状態が口を切られると、それは個人的の限度を超えて立ちのぼる。死はまったくその毒刺を失う。武士の修養が禅と連携するのはじつにこの点である。」とされているのである。
昔時において日本人は、自らは最も激しい生死を賭した戦場に身を置いた状態にあっても、そこから自己を引き離す一瞬の余裕を見つけ得る精神性を徳とし、生死を超越し、我が身を客観視し、辞世の歌を残す頑強さを備えていた。これは道徳的には、一度その選択をなした以上は、振り返らぬことを教え、哲学的には生と死とを無差別的に取り扱うところの「禅」の思想が日本人の精神に深遠なる洞徹を与えたことの結果である旨指摘しているのである。