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「幽囚の心得」第21章 刑事政策の意義と刑罰の正当化根拠(4) 「刑事政策の目的実現の為の究極の態様は徳育に他ならない」
尤も、人格の在り方と「感性」の関係を論理的なものとしてもっと明確に言語化していくには、更に思索を重ねる必要がありそうである。
一つ言えるとするならば、個と全体との調和、人と自然との調和、理論と感覚との調和というその“調和”という概念が芸術を理解する心と人格の形成の関係を意味付け、言い表す鍵となるのではないかということであろうか。
ここで“調和”とは、他を圧することなく融和する状態、一つところのものを超えた高次の美を形成する姿の意で用いている。感謝の心や惻隠の情、孝心といったものも、情操と無関係ではないだろうと思う。
「人間力」と言われるものは、少なくとも合理や論理について認むものではなくこの「感性」に関わるものであると私は思っている。それこそ“調和”こそに「人間力」の重要な要素ではないだろうか。この点は更に探究したい。
矯正処遇の内容はこれを具に見ると、浅薄で表面的、形式的な論理によっている、その限りに止まってしまっているとの印象が強く、より強固な理念、信念によった深みというもの、骨太なところを感じることが出来ない。国家による最大の人権侵害の現場において、理念が脆弱なものに止まっていることは極めて由々しき事態だ。
現代の日本社会全般に広がる空虚な面持ちで浮き草のように根無し草のように人々が浮遊している人間社会の空白状態に矯正処遇の現場に現れる状況も、全く同様で例外となるものではない。小手先の聞こえのいい理屈を並べるだけでは、他者の精神の深層に分け入ることは絶対出来ない。これでは道徳教育というものが叶うはずがなく、それどころか、そもそも内心の自由、思想・良心の自由を理由とするものであろうが、矯正教育はそこには立ち入らないのが当然とさえされている。刑事政策学の講学上の議論もそれを当然の前提としていると見受けられる。
刑事施設の現場に関わる人間は、どのように生くべきか迷いの中にある者に対して、正当化根拠も明確でないルールをとにかく守れと規制し、これが矯正教育だと言わんばかりの面を晒している。思想なき社会の住民に追従し、とにかく和を乱すなと言うのだ。
しかし、迷いの中に暗然として踠く者は、潜在意識においては思想を求めているのだ。如何に自身において、内に思想を獲得するか、その導きを請うておるのである。私にはそう見える。何らの思想も持ち合わせていない人間には、そもそも自由などは得られるはずはないのだ。思想とは人格である。思想の醸成なくば人格は発展しない。この視点の欠如した矯正教育の現場とその担い手の能力不足には全く慨嘆する。
刑事政策の意義は、犯罪を防止する為の施策を検討し、これを実施することに存する。犯罪を犯すのは人間である。その意味では、刑事政策の目的実現の為の究極の態様は、特別予防としてはもとより一般予防としても、人間教育、即ち徳育に他ならないのである。