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母性の行方~それでも血は続く~(映画感想)

『母性』は、"親子"の物語だ。

とある事件が「事故か、自殺か、殺人か」。懺悔する戸田恵梨香の予告を見て、「後悔を伴う親子関係を含む家族の物語に端を発したミステリー」をイメージしながら映画館に行った。
必ずしも予告はミスリードではなかったのだけれど、それよりも何よりも、『母性』は親子の物語だった。『母性』というタイトルなのだから、そんなの当たり前だと言われるのだろうか…。

『母性』に登場する親子

早々に予想外だったことがある。最初から、もうひと親子登場したことだ。
戸田恵梨香と永野芽郁の親子話かと思っていたら
大地真央(母)と戸田恵梨香(娘∧母)と永野芽郁(娘)だった。
予告にあった「愛せない母と、愛されたい娘。」その愛せない理由に、さらなる母がいることを知らされる。

(C)2022映画「母性」製作委員会

母性が何たるかは劇中でも一度辞書を引用して語られるシーンがあった。
"女性が、自分が産んだ子供を守り育てようとする…云々"
「女性だけだと?!」「自分が産んだ子限定だと!?」きっとみんなびっくりする。もちろん私もびっくりした。でも、序盤のこのセリフのせいで、ずっと"母性"という言葉に引っかかったまま映画を観続けさせられてしまった。
映画の舞台は内容から察するに、大地真央が昭和一桁、戸田恵梨香が昭和20年代、永野芽郁が昭和50年前後生まれ、という位の時代設定なのだろう。それならば、母性を辞書で引いたら、そんな意味が出てくることも納得できる。
言葉は生き物だ。辞書だって進歩する。この11月に、実に8年ぶりの全面改訂をして第6版が出たジーニアス英和辞典には「Instagram」や「 instagrammable(インスタ映え)」が加わったらしい。時代とともに言葉は変わる。その概念も変化する。だからこそ思う、あの頃を生きていた彼らにとっての母なる性質ってなんなんだ、と。

この映画には、大きく分けて2家族が登場する。
①大地真央(母)→戸田恵梨香(娘∧母)&三浦誠己(父)→永野芽郁(娘)
②高畑淳子(母)→三浦誠己(息子)&山下リオ(娘)
①の父と②の息子が同じ名前であることから分かるとおり、②は父方の親族親子なのだが、①と②は、一緒住んでも「ひと家族」ではなかった。徹頭徹尾、「2つの家族」「2つの親子」だった。
①の中で、②の中で、親子の関係性が語られる。それぞれの親子関係に、相手の親子が介入することなんて許されない。同じ釜の飯を食ったらもう"家族"、は幻想だ。異様に我が子LOVEな高畑淳子は、血が繋がっているはずの孫をずっと家族と見なしてくれなかった。辛すぎるひとつ屋根の下。

母性が欠けている人が出てくる本

最近、『悪い夏』という本を読んだ。「クズとワルしか出てこない」というキャッチコピーがついているほど胸糞が悪く、生活保護受給者と、生活保護を打ち切りたいケースワーカーと、ヤクザ三つ巴の負の連鎖という、何とも最低にして最高に読み応えのある本だ。そこに貧困にあえぐ22歳のシングルマザーが登場する。4歳の子供がいる彼女だが、育児は全くしない。子供のことがふと頭から消える。いなければよかったのに、とすら思う。我が子に、自分を好いて欲しいとも思っていない。もはやネグレクト。なんと母性のない母なのだ。

悪い夏 (角川文庫) Amazonより

母性の有無なんて問題じゃない

子を愛せない母には母性がないのだろうか?守り、育てることが母性ならば、戸田恵梨香には、確かに母性は存在したのだ。だって、永野芽郁は虐待されることも飢えることも無く、ちゃんと大人になって、学校の先生にまでなっているのだから。
『母性』というタイトルの映画なのに、出てくる人は誰も「自分に母性がないのではないか」なんて悩んだりしない。登場人物たちが置き去りにした母性について悩んでいるのは、映画を観ている私たちだけだ。でも、出てくる母がみんな信じていることがある。"我が子は、私のことが好きなはずだ"と。そこに寸分の疑いも持たない。娘の予想外の行動を受けて初めて、自分自身を省みる。そんな行動をとった娘もいつか母になり、同じような経験をするのかもしれない。
どんな出来事も、視点の数だけ真実はある。だからこそ、『母性』のミステリーは成立するのだ。コナン君は言っていた、「真実はいつもひとつ」だと。でも、そうじゃない世界もいいじゃないか。

映画『母性』公式ツイッターより

母性"に"あること

一つだけ、母性にとって確かなことがある。母性に間違いなく必要なのは、"絶対的に他人事にできない他者の存在"なのだ。母性は父が持ったっていい。母が持ったっていい。相手は娘でもいい、息子でもいい、孫でも、ペットだっていい。でも、相手がいないと成り立たないのだ。宇多田ヒカルが『For You』で「一人じゃ孤独を感じられない」と歌っていたが、母性も一人じゃ無理だった。

最後まで母性に振り回されて、疑い続けて、惑わされていたのは映画を観ている私だったのかもしれない。

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