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『私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年』
“私は自立だけでなく、自律していたかった。”
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『私の夢はスイスで安楽死 難病に侵された私が死に救いを求めた三十年』くらんけ
末梢神経が徐々に麻痺していってしまうという難病「CIDP(慢性炎症性脱髄性多発神経炎)」。幼い頃からこの難病と闘ってきた著者が“死”に救いを見出し、スイスで安楽死を試みるまでの物語を綴ったノンフィクション。
医療トラブル、学校でのイジメ、そして両親との衝突……。様々な苦難を乗り越え、死の“直前”までたどり着いた彼女がそこで感じたこととは――。(Amazonより)
自分の経験や想像力では推し量れない現実。
難病による幼い頃からの経験と、そこから想像しうる未来から安楽死(介助自殺)という選択肢を手に取った女性の物語。
生きていることの絶対的正義観と、自ら命を立つことへの絶対的罪深さは誰しもが持っているし、大抵の場合はそのまま正解なのかもしれない。
でもどこまでいったとしても、死ぬたくなるほどの苦しみと生きることを辞めるほどの諦めや絶望は、究極的にはやっぱり本人次第なんだよなとも痛感した。
この本はあくまでも自殺を薦めるような本ではないし、たくさんの理由や可能性、経験を経た上の「自己決定」により「死ぬ権利」を手にした筆者という一人に起きた出来事がメインである。
そこには今まで知らなかった、悪とは言えなくても、誰にとっての正しいことなのかわからない医療者との軋轢が存在していた。
自分たちの成果や功績への固執とまでは言わなくても、僅かな可能性があれば諦めず少しでも改善させるという、もしかしたら患者にとっては医療従事者のエゴとしか映らないような事実も含まれていた。決してここに描かれているような人たちばかりでもないし、かと言って医療ドラマに出てくるような人たちでもないのが現実なんだろう
”命は救っても、人は救わない医療者とは”
この言葉が深く残っている。
反射的に自殺=悪とするのではなく、どのような状態、心持ちであれば生き続けたいのかということも考えさせられた。
”安楽死はある意味ありだと思う。生きたくても生きられない人もいる。でも生きたくて生きるのと、生かされて生きるのは全く違うから。”
”死にたいというより、もう生きていたくない”
もし自分が著者と同じ病に冒されたとしたら、ALSを患ったとしたら、イメージできるはずはないけど、伝える手段や力がなくなった後では遅いかもしれない。
”来るべき日に備えて日頃から大事な人と”個人の本音”を知らせあい、任せられるよう努力する必要がある。”
”命は尊い。しかしそれは自分らしく生きられてこそ。邪推や批判、傍観をやめて、誰かが発した”個人の本音”を曲解することなく重く受け止める謙虚さが今求められていると私は思う。”
何が最善策で、何が悪手かなんてやっぱりわからない。でもわからないなりにも、たまにでもいいからイメージして、怖がって、支えてくれるだろう人と本音を送り受け止められるよう準備しておくことはとても大事なことだと感じた。
人間の尊厳の中でも本当に重要なことは冒頭の言葉にあると思う。