すずめの戸締りと光の跡と2024上半期と
2024年上半期を振り返ろうと思ってこの文章を考え始めた。
考えてたら、下半期1カ月過ぎてた。別にここから先のハードルを上げるつもりはない。考えても考えても、煮え切らなった思いの切れ端がつらつらとあるだけです。
4月に「すずめの戸締り」が地上波で放送された。その後配信サイトでも解禁されたということで、映画のことについてネタバレありで書いていきます。
鈴芽の出身は東北地方で、2011年3月11日の東日本大震災の被災者であり、母親を震災で亡くした「震災孤児」だった。叔母の環に引き取られることになり、宮崎で過ごしていたということだ。宮崎を出発した旅は、愛媛、神戸、東京へと舞台が移り、その途中で草介が自らを犠牲にしてミミズを鎮める。要石となった草介を助けるためには、鈴芽は故郷に帰らなければならない。しかし、鈴芽にとって故郷は大津波にのみこまれ、母親を失った忌まわしい場所になっていしまっていた。東京~東北までのドライブの道のりで、震災後の区画整理が終わり、綺麗な宅地が並ぶ沿岸の町で小休止するシーンがある。草介の友人であり、東京育ち(たぶん)の芹澤とすずめは、その町の景色を見てこんな会話をする。
芹澤:このあたりって、こんなにきれいなところだったんだなあ
鈴芽:きれい…?どこが…?
新築の建物が並び、護岸工事が終わった穏やかな海辺の風景。確かに画面で見ても綺麗だった。しかしその綺麗さは、一度大地震と大津波に襲われ、すべて更地になった土地に作られたものなのだ。それを鈴芽はわかっている。芹澤にはわからない。この2人の隔たりを、自分はとてつもない大きなものに感じてしまった。
埼玉県の都会で生まれ18年育った自分にとって、19歳から過ごしている石川県の自然は本当に美しい。特に海なし県の民にとって海の美しさは格別に見える。はじめて砂浜の海岸から日本海に着水した瞬間は忘れられない。山も美しい。四季折々の美しさを見せてくれる。言い出したらキリがないが、下宿から自転車で出かけられる範囲の環境でカモシカに出会ったときは笑ってしまうくらいだった。
しかし、そんな自然の美しさは、生活の不便さと表裏一体だったのかもしれないと、2人の会話から気づかされる。気づかされるというのは都合がいい言い方だ。ほんとはわかっていたのに、目を背けていたことだ。都会と比べて不便で不自由な場所であるという事実を受け入れながら、そこで生活していた人々が一瞬にして命や生活を奪われた。その過去を忘れたかのように、踏みつぶされてかさ上げされた土地の上にできた町を見て、余所者が「きれいだったんだなあ」と言う。鈴芽には、「おまえになにが分かるか」というような憤りがあったように感じる。
やっぱり都会(地元)のほうがいい。2019年くらいまでそんなふうに思っていた。大学3年生、石川県民3年生の段階だ。2024年現在、石川県8年生の自分は少し変わった。石川県というか田舎も良いと思えるようになってきた。というか都会が嫌だという思いの割合が増えた。いろんな要因がある。変わりつつあるタイミングで映画を見て、この会話を聴いたので、どちらも一長一短、結局トレードオフだし、ないものねだりだなと帰着してしまう。
2023年10月24日火曜25:00。毎週聴いている「星野源のオールナイトニッポン」をradikoで再生する。源さんが話し始める。
「実はこの間ね、金沢行ってきたんですよ」
ドキッとした。さすが石川県民7年生。田舎と思いつつも、敬愛するスーパースターが生活圏内である金沢を訪れたと聞いたら「ようこそ!」と言いたくなる。仕事半分、一人旅半分というつもりで金沢に訪れたそうだ。しかし、源さんが訪れた日はあいにくの雨、それも短時間ではあるが雷も鳴る日だったのだ。
北陸の気候をご存じない人のために一応書いておくと、北陸地方は秋から冬にかけて晴れの日が激減する。そして荒れた天気が増える。冬に雪が降るのは想像できるかもしれないが、個人的には秋から冬に移り変わるタイミングのほうが酷い天気が多いと思う。雷が鳴り、雹が降る。ちなみに冬に雷が鳴る天気は世界的にも珍しいらしい。生まれ育った埼玉で雷が鳴るときは決まって夏だったし、夕立の1、2時間だけというイメージが強い。しかし北陸の冬の雷は一晩中鳴り続けることもあるのだ。この北陸の秋から冬の気候は、埼玉からやってきて最も衝撃を受けたことである。そして、自分が埼玉と石川を比べるうえで、1番の石川の減点部分である。
そんな、北陸の悪い部分が全面に押し出されているなか、源さんは金沢を旅する。さぞ悪天候に悩まされただろうと思ったが、雨のなか兼六園や金沢城公園を散策したそうだ(当然野外である)。雨のおかげで他の観光客はおらず、歴史的な史跡や城内の自然に落ち着いた風情を感じられたそうだ。変装用のマスクや帽子も外して「ひとり雨に唄えば状態」だったそうだ。目的の「鈴木大拙館」に向かう途中の「美術の小路」に非常に感動されたようだった。鈴木大拙とは、石川出身の哲学者であり、「禅」について探求し、その教えを海外向けに翻訳した方でもある。この金沢への源さんの旅は、楽曲制作も兼ねていたことを2ヶ月後のラジオで知ることになる。2023年12月26日の放送で、新曲「光の跡」について解説と楽曲への思いが語られた。
「今回、旅をテーマに歌詞を書きたいと思って、歌詞を書く旅しちゃおうかなってなったら、土井善晴さんから鈴木大拙館の招待状をもらったんだよね。それで金沢に行ったんです。金沢に行ったからこの曲の方向づけができたし、行かなかったら全く違う曲になってたと思う。金沢は土砂ぶりだったけど、帰るとき、ようやく晴れたんだけどそのときまだ雨降ってて、水たまりに雨粒が落ちて波紋が広がるなかに太陽光がさすことでキラキラしてめっちゃ綺麗だったんだよね。この2年ものすごく落ち込んでいて、希望が感じられなくて、今年やばかったんだけど、そんなときに歌詞を書かなくちゃいけなくて…。なんにも考えないで、うわーって出てきたのがAメロの「人はやがて 消え去るの すべてを残さずに 綺麗にいなくなり 愛も傷も 海の砂に混ざり きらきら波間に反射する」だった。これが出たおかげで、曲が書けた。自分にとってこの曲を書けてよかったというか、辛い1年を乗り越えた感覚があります。」(一部略あり)
2020年以降の星野源の楽曲やエッセイなどには、社会というか世界への諦念を強く感じる。その極地がこの「光の跡」だと思う。悩み、苦しみ、ようやく心をさらけ出すように作られたAメロが上記の歌詞なのだ。同日のラジオ放送内で、こうも語る。
「なにもかもなくなるなら、なんの意味もねえよと思ったのよ。でも、俺は、雨上がりの金沢の太陽の景色にめちゃくちゃ感動したのよ。なんでこんなに、なんの意味もない人生を、あの太陽を見たってだけの、水たまりを見たってあの瞬間に、なんであんなに感動したんだろう?って。で、その金沢の町を歩いてる人たちが写真撮ってて、もうすぐ(というか絶対に)死ぬのに、なんでこんなに忘れないように思い出を残してるんだろう?って強く思ったんすよ。それのおかげで歌詞が書けるようになって、「終わりは未来だ」、「出会いは未来だ」という歌詞に行きつけた」
無常観というか死生観というか、どうせ死ぬ人の一生に意味なんかないというのは、禅というか仏教的だ。禅を探求した鈴木大拙の心に触れて、源さんのその思いはより強くなったのかもしれない。
「ほんとに「今のうち」って思うんすよ」
くも膜下出血で本当に死にかけている源さんが言うこの類の言葉は重みが違うと、いつも思う。今のうち。2023年末にして、なんとなくお守りのような言葉を源さんからもらった気分だった。今のうち。そう思いつつ、年を越した。
2024年1月1日
実家で過ごす元旦は毎年朝が早い。だから夕方ころに眠っていた。耳にあの不快な音が飛び込んでくる。元旦から地震か。災難だな。まどろみながらそう思った。祖母の部屋のテレビから「津波警報」と聞こえた。耳が遠い祖母はテレビの音量がとても大きい。津波ってことは、東北か、四国あたりか。兄が入ってきて、焦った声で言った。「石川で地震だって」。
信じられなかった。内湾の日本海で津波?そう思ったのをよく覚えている。ニュースを一通り見た後、YouTubeで石川県のライブカメラを検索した。金沢港、千里浜など、海辺のライブカメラを確認しても、目立った潮位の変化はすぐには見られなかった。結果的に、ライブカメラで確認した地点は、津波の被害がほとんどない場所だったが、まさか地盤が隆起して、天然の防波堤になっていただなんて、ライブカメラを見ていたときは想像もつかなかった。
私の下宿と生活圏内の地域に、生活に支障の出るほどの地震の被害はなかった。報道されているとおり、「能登」と呼ばれる日本海に突き出た半島の先のほうほど被害が大きかったようだ。数日たっても、救助が来ない。自衛隊が現地に到着しない。民間人の能登への往来は控えて。そんな報道がされた。もしかしたら都会、埼玉に住む人には理解できないかもしれない。どうしてそんなに現地に到着できないのか?津波で水没したわけでもない土地に自衛隊ですらなかなかたどり着かないとはどういうことなのか?自分がもし、埼玉でずっと暮らしていたらそう疑問を持っただろう。実際、実家の家族も想像がつかないようだった。能登に行く道は2本しかないのだ。簡単に言えば、1本の高速と1本の下道。もっと細かい道はあるのかもしれないが、そんなもの大地震直後に使えたとは思えない。1本の下道は、地震で各所で寸断。残り1本の高速も、穴ぼこだらけだが、もうその道を使うしかないということで、急ピッチで場当たり的な復旧工事が始まった。おさらいしておく。これは、1月1日の話だ。大きな火事があった輪島市と金沢駅との距離は約110 km。大宮駅から神奈川の横須賀までが約100 km。その距離に、車が走れる道が2本しかない町があることを、都会に住んでいる人たちはどれくらい想像できるだろうか?「能登みたいな田舎だから、仕方ないね」そんな声も聞こえた。でも、自分には、大宮-横須賀間のように100 kmの距離にいくつも道がある土地のほうが、日本には少ないんじゃないか?と思えてしまう。調べる気も起きないけど。
正月三が日くらいでこんなことを考えた。10日ほどたったある日のニュースで、耳を疑う報道がされた。ある能登の市町村で、避難所に首長が現れ、避難所にいる住民に対し、全員で金沢方面へ二次避難を半強制的に行うというものだった。首長はすでに住民が乗れるだけのヘリを用意しているようで、今から時間をやるから、家から各自大事なものを持ってこいと住民たちに伝えていた。
こんなことがあっていいのかと思えてならない。でも、記憶のなかのすずめが、自分を睨みつけている。お前にわかってたまるか、と。地震のとき都会の安全圏でまどろんでいたくせに、と。なにを思っていいのかわからない。今でもそうだ。
5月に被害の大きかった能登のある市町村に伺った。復興は全然進んでいない。5月になって、ようやく県内全域の上水道が復旧したくらいの段階だった。怒っていいよと言われれば、書き残すのを躊躇するくらいの激しい言葉で怒りたい。でも、その権利が自分にあるのか、よくわからない。ただ、5月の能登でみた山と海の美しさは、2023年以前のそれとほとんど変わらなかった。自然の季節は進み、山肌は新緑の季節であり、日本海は穏やかだった。地震後に多くの土砂が流れ込んだ沿岸域でも、海藻や小さな動物たちが再びみられるようになっているらしい。つくづく自然の破壊力と回復力には畏敬の念を抱く。復興していないのは人間の社会だけ。そんなふうに思えた。いっそ捨ててしまえば…そんなことを思う人がいても、正直納得する部分がある。
すずめの戸締りの世界では、「人の心の重さが、その土地を鎮めている」らしい。「人がその土地に住んでいることは、歴史であり権利であり、誰にも侵害されてはいけない」という言葉をネットで目にした。その通りだ。じゃあ、その権利と歴史は、最低限尊重されるべきではないか。能登の人々は今、尊重されているだろうか。これから先、日本中で人の心の重さが減っていく土地ばかりになって、それでもその土地を思い、暮らしていく人々は尊重されるだろうか。
源さんは2024年1月2日に急遽ラジオの生放送を行い、「一緒に不安になりましょう」と声を電波に乗せてくれた。「今のうち」というメッセージを込めた、金沢で作られた楽曲の話をした1週間後の話である。
「今のうち」
2024年の私にとって、間違いなくこの言葉は原動力のひとつだった。それは下半期もそうだろう。でもそれは、ポジティブな意味なのか、ネガティブな意味なのか、自分でもよくわからない。