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化学反応なのだ、つくることは

ここ最近、立て続けに本を読んだ。
家には常に図書館で借りた本もあるのだけど、積読の消化を優先させようと決めた。そうしたら新しい素敵な本に出会ってしまい、そちらを読んだ。今度は図書館の本を読みきれず、読めないまま返すことになった。積読は1冊だけ減った。

自分の読める量は決まっているんだなと改めて思う。インターネットでも積読でも新しい本でも、その中で読んでいる量は一定なのだと思う。時期によってその配分が変わるだけ。

それであれば、できるだけ自分が必要とするものを優先して読みたいと思う。心が動くことが何より大切だから、積読がなかなか減らないのはもうほとんど諦めているのだけど、いつも少し心残りがある状態で本を読む。でも、それくらいのスパイスを求めているのかもしれない。「積読あるのにこの本が面白くて読んじゃったよ」と言うのが本当は好きなのかもしれない。

この2冊を一気に読んだ。

普段、ハードカバーや単行本を読むことが多い。この2冊は文庫本だったのだけど、文庫本って素敵だなと改めて思った。

まず、軽くて小さくて持ち歩きやすい。ソファでだらだら、お布団でだらだらしているような時にも、横になりながらでも読める。軽くて持ち運びやすいので、カバンの中にも入れやすい。もっとも、大きい本でも読みたければ持ち運んでしまうのだけど・・・

と、いいつつこの本はさすがに大きくて重量もあったので、家でだけ読んだ。

この3冊を買ったきっかけはそれぞれ全く違うのだけど、今こんなふうにnoteの画面に並べてみると、どれも共通したテーマがあるように思えて不思議だ。傷に関する宿命論と因果論のあいだで。脳卒中で出血を起こし機能を失った左脳と、解放された右脳のあいだで。自分が何事かを「する」ことと「される」ことのあいだで。

重要なのは自分が選択できると知ることなのだ、と「奇跡の脳」の著者は言った。昨日読んだばかりなのでまだ記憶に新しい。

「傷を愛せるか」の一部を、一文字も欠かさず自分の記録に残したいと、メモアプリに長々と書いてあった。

事故や重病に見舞われることに理由はあり、同時に理由はない。回復するかどうかは努力次第であり、また運次第でもある。過去を受け入れ、同時に未来への希望を抱きつづけるには、おそらくほどほどの無力感=宿命論と、ほどほどの万能感=因果論を抱え込むことが必要なのだ。両方を共存させ、納得しやすいほう、生きていくのが楽になるほうを、そのときどきで都合よく使いわけることが重要なのだ。

「傷を愛せるか」 https://amzn.asia/d/eXqZhoj

わたしは「中動態」の作用によって、きっと書いていると同時に書かされている。自分で作っているつもりだけれど、外部から自分に入り込んでいるさまざまな作用によって作らされている部分もある。その区別は完全にはつかないのかもしれない。だけど「自分ひとりで何かを成すことばかりじゃない」と思っていたい。ひとりだけど、ひとりじゃない。化学反応なのだ、つくることは。

絵もうまくいくときといかないときがある。自分の中の「うまくいくいかない」の評価を消し去ってしまいたい。

他者から評価されるのは変えることができないけれど、わたしはただ作りたい。排出したい。自分の心の動きのままに。気に入らないのなら遊んでしまえばいい。全部を自己責任にして問題解決だけをしようとするほど、ものづくりは狭くないのだから、そこに全幅の信頼を置いて生命をあずけたい。

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マスブチミナコ
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