『ウルトラス 世界最凶のゴール裏ジャーニー』著者インタビュー ②
「だから僕たちはサッカーに魅了され、サッカーを描き続ける」
ジェームス・モンタギュー × 田邊雅之
■「骨の髄まで政治的」な二冊の書籍
田邊雅之(以下M):ここまでは『ウルトラス』を着想した経緯や取材の苦労話、そして出版後の反応について聞いたわけだけど、もう少し深い話をしていこう。
『ウルトラス』はどの章も興味深いし、これまで知られていなかった事実や視点を提供している。僕が個人的に感心したのはドイツの章だった。いかにも頭でっかちで議論好きなドイツのサポーター文化が描かれているだけでなく、君はファンのコメントを引用して、「政治的中立性」などというのは幻想だと断言している。
これはかなり驚きだった。政治学や政治哲学の核心を突いているからだ。僕は『億万長者サッカークラブ』を初めて読んだときにもすごく驚いたし、それ以上に興奮した。これは政治学の本じゃないかとね。
ジェームス・モンタギュー(以下J):確かに「億万長者サッカークラブ」が出たときは、そんな話をしたね。君みたいなバックグラウンドを持っているジャーナリストが、あの本を見つけてくれたのは、本当にラッキーだったよ。
M:さらに言うと、僕はサッカーライターで、これだけ政治学に精通している人間がいるとも思っていなかった。ずばり聞くけど、もしかして政治学を学んだりした?
J:ご名答。僕は大学で政治学と政治哲学を専攻したんだ。君と同じようにね。その後は数ヶ月間、「ニュー・ステイツマン」というイギリスの左翼系の政治雑誌で働いた。それがジャーナリズムに関わるようになった、きっかけだったんだ。
M:なるほどね。僕は『億万長者サッカークラブ』を読んだ瞬間から、どうしてジェームス・モンタギューという作家は、こんなに政治的な見方ができるのか、もっと言うと、なんで政治学そのものに精通しているんだろうとずっと不思議に思っていたんだ。その謎がついに解けた。正直、もうこのインタビューを打ち切っても良いぐらいだ。
J:君が言うように、僕の作品はとても政治的なものだと思う。もちろん僕は政治運動をしているわけじゃない。でも政治学の本はかなり読んできたし、政治に関する知識もそれなりに持っている。
だから特派員を目指すこともできたけど、結果的には自分の知識や視点、文化や社会に対する関心を活かして、あえて脇道に逸れることにした――他の人がやっていないようなアングルで、サッカーについて書く道を選んだんだ。サッカーにまつわるストーリーの中には、実は社会や政治、文化を浮き彫りにする要素が含まれているからね。
■ サッカーを通してこそ見えてくる、現代社会の姿
M:君はサッカーを題材にしながら、本質的には政治や社会、文化を描いてきた。サッカーは社会の仕組みを解き明かすメタファーになっている。
J:そう。だから僕は自分のことを、いわゆる「サッカーライター」だとは思っていない。確かに僕はサッカーが根っから好きだし、試合も観に行く。ファンのカルチャーも大好きだしね。
だけど僕の場合は、取材で聞いた話やスタジアムの周りで目にした物事を、もっと広い文脈で捉えて、政治や社会、文化論に翻訳していける。そういうやり方をすれば、自分なりの表現ができるし、ましてや自分と同じ視点で物事を見ているジャーナリストは、きわめて少ないからね。
M:君の言っていることは、すごくよくわかる。
僕もサッカーは昔から好きだった。他のライターさんたちの仕事も尊敬しているし、自分自身、戦術論やインタビュー、紀行物やクラブの歴史物も書いたりする。最近ではスポーツビジネスの取材も多い。
でも他の人に比べると、かなり毛色が違っていると思う。音楽の書籍や人物ルポを書いたり、CDを作ったり。あげくは辞書で政治の項目を執筆したり、児童文学まで手がけたりする。写真も撮るしね。
正直、自分でも、ずいぶん変なライターだと思う。だけど政治や社会(*1)、音楽、映画、文化論にも興味があるから、こればっかりはどうしようもないんだ。ほとんど「性」のようなものだし(苦笑)。
J:それは僕たちが持っている「病気」のようなものだよ(苦笑)。サッカーの取材をしていても、僕たちのような人間には、サッカーの周りにある要素も同時に見えてくるし、その先に潜んでいるものを考える。そういう視点こそ、面白いと感じてしまうんだ。
『億万長者サッカークラブ』は典型だと思う。あれはサッカー界に関する本だけど、試合にまつわる話はほとんど出てこない。むしろ根本的なテーマは、サッカーから浮かび上がってくる政治や経済、社会になっている。だから『億万長者サッカークラブ』を書いているときは、サッカーの試合を取材に行くケースは少なかった。
その点で『ウルトラス』は、かなり違う。ウルトラスのムーブメントは、実際にスタジアムで行われる試合や、そこでファンが経験することにより密接に結びついている。
当然、僕はスタジアムに何度も足を運んだ。ファンカルチャーが抱える、闇の部分も取材したしね。それでも具体的なサッカーの話、俗に言うピッチ上の話題は、一番後から出てくる要素になっているんだ。
M:『億万長者サッカークラブ』の比較で言うと、あの本はサッカー界や社会を牛耳る側に焦点を当てているのに対して、『ウルトラス』は真逆の立場にいる人、権力や組織に歯向かう人々にフォーカスしている。つまり二冊の本は、コインの裏表のような関係にもなっていると言ってもいい。
ただし、基本的な視点は通底している。君にとってサッカーの試合は、サッカーという社会装置の根幹にあるけれど、ある種の帰結、表出に過ぎない。
J:その通り。世の中は常に移り変わっているし、サッカーも社会の変化とは無縁ではいられないんだ。時計に例えるなら、「サッカー」というものの中心には試合があり、その周りでいろんなことが起きている。
さらに引いた目で見れば、社会は政治や経済、文化が中心にあって、その周辺でスポーツを含めたあらゆることが動いている。サッカーは、こういう巨大な社会構造の一部分なんだ。
M:サッカーは、社会を映し出す鏡だとよく言われるけれど、その意味はもっと深い。サッカーは単に社会の影響を受けるだけでなく、政治や社会に直接影響を及ぼすことさえある。その事実を明かしたという点でも、『ウルトラス』は画期的だったと思う。
J:その通り。それこそが、僕が描こうとしたことの一つだったからね。
■ ウルトラスたちが抱える矛盾と葛藤
M:関連して言うと、君はウルトラスの二面性についても論じている。イタリアの章は特にシンボリックだ。
まず前半ではラツィオを牛耳っていたウルトラス、イッリドゥチビリのピッシテッリが登場し、闇の帝国の実態が明かされる。でも後半では、アタランタのリーダーであるボーチャ、地域コミュニティのヒーロー的なウルトラスが出てくる。この章では、ウルトラスが持つ二つの顔が端的に描かれている。
J: それが彼らの真の姿だからさ。
トルコもそうだ。トルコのウルトラスは本当にワイルドで強面だけど、彼らは社会に対して強い義務感や正義感も持っている。だから地域コミュニティのためにも活動するし、民主化を求めて抗議デモもやったりするんだ。
『ウルトラス』で書いたように、似たような例はいくらでもある。クロアチア、ボスニア、トルコ、ギリシャなどで自然災害が発生したとき、真っ先に組織的な援助活動をしたのはウルトラスだった。こういう一面もしっかり踏まえないで、ネガティブな側面だけを強調するのは、やはりフェアじゃないと思うんだ。
M:さらに深い話をすると、君はウルトラスが抱えている根本的な矛盾や葛藤にも光を当てている。
J:ドイツは典型例だね。ドイツに行くと、ウルトラスの活動はサッカー絡みのムーブメントという枠を超えて、政治的活動の一形態だという印象を受けてしまう。
わかりやすいのは左派のウルトラスだけど、実はニヒリスティックな極右のフーリガン、手がつけられないモンスター(怪物)のように思われている連中でさえも、社会的な義務感を持っていて、ポジティブな行動を取ったりするんだ。
■ 映画スターに転身した、ウクライナのセルヒー
M:僕が興味を持ったのはディナモ・キエフのリーダー、ウクライナのセルヒー・フィリモノフだね。セルヒーは傍から見ると、粗暴なウルトラスのメンバーであるだけでなく、ネオナチ的な極右の活動家という位置づけになる。
でも本人は社会のために正しいことをしていると信じ切っている。政治運動に関してもだ。その意味でセルヒーは、エリック・ホッファーが「確信者 True Believer」と名付けた人々、自らの信念に突き動かされるタイプだと思う。
彼が究極的に信じているのは、政治のイデオロギーではなく、自分の「善意」や「良心」に他ならない。それが時には、腐敗した政治家に対する抗議デモを組織するモチベーションになるし、人々が眉をひそめるような極右の政治活動にもつながってしまう。この矛盾は本当に興味深い。
J:僕が『ウルトラス』で書きたかったのは、白か黒かで単純に分類できない人たちの物語でもあるんだ。
そもそも僕たちは、誰もが試行錯誤を重ねながら、少しずつ成熟していく。ウクライナでインタビューしているときも、彼はこれから変わっていくだろうという予感があったんだ。セルヒー自身、自分を見詰めながら、もっといろんなことができるはずだと考えていたからね。
実際、セルヒーに関しては、あの本を出した後にすごいことが起きたんだ。彼はなんと映画に主演したんだよ!今年のベネチア国際映画祭では、「オリゾンティ」という部門で『Rhino』という作品が公開されている。これは1990年代のウクライナを舞台に、とある若者が闇社会を駆け上がっていく姿を描いたもので、高名な監督が撮影したことでも注目された。
セルヒーはその主役に抜擢されたんだ。要は自分のかつての姿を地で行く役割を演じたわけだけど、今やウクライナでは、映画スターみたいな有名人になっている。
M:それはすごい!日本でも上映されないかな。彼が立ち上げた護身術のビジネスを日本でも展開したいなら、最高のPRになるはずだし(笑)。
J:確かに(笑)。映画で主役に抜擢されたのは驚きだけど、彼はこれからもっと変わっていくんじゃないかな。たとえば元の政治の世界に戻って、大統領選に出馬するような展開だってないとは限らない。
いずれにしても、セルヒーとは、また世界のどこかで会えるような気がしているんだ。思いも寄らぬ形でね。
■「パラシュート・ジャーナリズム」を遠く離れて
M:君はウクライナのセルヒー以上に、アルバニアのイスマイル・モリナに深く関わった。彼とは今も連絡を取り合っている?
J:ああ。イスマイルとは2、3ヶ月前に話をした。彼は元気にやっているみたいだったね。今は運送業を経営していて、生活も順調らしい。それと、またサッカーの試合に行くようになっていた。
M:君が『ウルトラス』の最終章で書いているように、イスマイル絡みでは、また何らかの取材をすることになりそうだね。それが『ウルトラス』の続編になるんだろうか。
J:今後の展開について言うと、実は『ウルトラス』がテレビ番組としてシリーズ化される可能性もあるんだ。とあるテレビ局がすごく関心を持ってくれて、(映像化する)権利を買ってくれたんだよ。
もちろん僕は文章を書くのが好きだけど、今の世の中はビジュアルで伝えていくのもとても大事になる。だから是非、映像化されて欲しいよね。そうなればきっと素晴らしい作品になると思うし、取材した人たちと、もう一度出会う機会も増えるだろうから。
僕は「パラシュート・ジャーナリスト」、ぽっと取材に出かけいって、お手軽に記事をまとめて済ませるような連中とは違う。一旦関わったら、長い間、じっくり付き合っていくタイプなんだ。
相手にしてみれば、僕と過ごした時間は人生のごく一部だったかかもしれない。だけど短い間でも、彼らは僕を受け入れてくれたわけだろう? だから僕は、その行く末をしっかりと見届けていきたい。いつもそんなふうに思っているんだ。
(第3部に続きます)
(第1部はこちらです)
(*1):12/9 追記
こちらのリンク先では、文春時代の同僚である宮田文久氏が発行している雑誌、Disco Vol2 に寄稿した書評を無料でご覧いただけます。
この文章をお読みいただくと、私がスポーツを見る際の視座や問題意識、関心領域がジェームスに非常に近いこと、換言すれば、私が彼の著作にかくも興奮した理由が、おわかりいただけるのではないかと思います。
すばらしい文筆家の方々や研究者の方々が寄稿されておりますので、是非、ご一読ください。
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https://note.com/masayukitanabe/n/nea42e1c11bd9
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