【読んだ】田野大輔・小野寺拓也編著『〈悪の凡庸さ〉を問い直す』
〈悪の凡庸さ〉とか〈凡庸な悪〉という言葉が使われる時、組織の論理に則って上からの命令を粛々と遂行する「平凡な小役人」みたいなことがイメージされてしまっているけども、それは間違ってると。
ひとつには、アイヒマンは決して「平凡な小役人」ではなかった。彼はむしろ「新しいアイディアを実行に移す、創造的で非官僚主義的人物」(P42)であり、組織能力や交渉能力もめちゃくちゃ高く、自らの業務がもたらす帰結も十分に理解していた。もちろん、ここでの「創造性」は即ち「破壊性」である(P43)。実際、アイヒマンが編み出したユダヤ人の集団移送システムはめちゃくちゃエグい。だからといっていわゆる「できる奴」だったのかと言えばそうでもなく、アイヒマンの行動は虚言に基づく自己演出に塗れていたのだし、死の直前まで自己顕示欲に支配されてもいた。終戦してから逮捕されるまでの間のアルゼンチン潜伏中、嬉々として反ユダヤ主義を語る様子もかなりヤバかった。
〈悪の凡庸さ〉をめぐる間違いのふたつめはここに関わっていて、そもそもアーレントの意図が誤解されていると。アーレントが描いたのはアイヒマンの「平凡さ」よりもむしろ「非凡さ」「異様さ」であり、それは「組織人としては極めて優秀でありながら、自分の行いを他者の視点から省みることができず、自分の言葉で自分の思考を表現することができず、物事を徹底して「浅い」次元でしか考えられないという異様さ」だと(P116)。アーレントが使った「凡庸」という言葉は、「誰か他の人の立場に立って考える能力」や「複数的な視点から自らの行動の意味を吟味し、判断する能力」が欠如している状況を指しているのであり、百木漠によればそれはむしろ「浅薄さ」に近い。アイヒマンが話をする時、「決まり文句」「自作の紋切り型の文句」ばかりを繰り返していたという描写は興味深い。いずれにせよ、〈悪の凡庸さ〉を巡る意味はアーレントの意図を離れて流通していしまっていると。ただしここには、アーレント自身も割と不用意に〈悪の凡庸さ〉という概念を提示してしまった事や、その後のアイヒマン論争の中で不本意な意味が固められてしまった経緯もあると。
〈悪の凡庸さ〉を巡る通念の誤りに関するこの部分は、おそらくこの本全体の前提になっていたように思う。もちろんそれも超勉強になったのだけど、それ以上に面白かったのは後半の座談会で、そこで編著者同士の考えの違いが明確にされた事だった。アイヒマンの行動様式や、〈悪の凡庸さ〉という概念の取り扱い方、あるいは「主体」や「責任」という概念の捉え方等々を議論する中で、歴史研究と思想研究というふたつの専門性の間での手続きや考え方の違いが浮かび上がる。
例えば「概念」の扱い方について。歴史研究においては、〈悪の凡庸さ〉のような概念はその有効性が問われ続けるのに対し、思想史研究では、有効性にかかわらず、「それぞれの概念がどういう文脈で、どういうふうに使われたのかという、いつ何の役に立つのかわからないようなことを細かくずっと追いかけていく」(P196)。これはなるほど、と思った。
例えばアイヒマンの主体性と責任をどこまで認めるか。アイヒマンは組織の歯車に過ぎなかったのだ、という俗説に抗する形で、歴史研究者は主体性や行動可能性、エージェンシーといった問題を重視するようになった。しかし思想研究では近年、「責任」というハードな考え方に距離を置く動きが出てきている(P178)。
例えばイデオロギーをどう捉えるのか。「一方に、アイヒマンは筋金入りの反ユダヤ主義者だという見方があって、もう一方に、彼にとってイデオロギーは単に使える道具にすぎず、それを自分の出世の手段として利用していたという見方があ」る(P142)。イデオロギーは道具のひとつに過ぎないとする考えに対して、近年のナチズム研究はもう少し包括的な次元で人々の行動を方向づけるものとしてイデオロギーを捉える(P143)。さらに最近の研究では、反ユダヤ主義は、「権力欲や出世欲、経済的安定の希求、同僚に対する責任感」といった「多種多様な動機や感情を動員して個々人の行動を方向づける一種の構造的枠組みとして捉え直」されてもいる(P62-63)。
いずれにせよ、歴史を語る場合であれ、あるいは哲学的概念を他の文脈に応用する場合であれ、めちゃくちゃ繊細で厳密な議論や手続きが必要なのであり、それが具体的に読めるのがとても勉強になった。翻って現状では、専門知による検証が必要な言葉がかなり雑に流通してしまっていて、つまりは専門知が軽視されているという事かと。少なくとも、「ホロコーストがなぜ起こったのか」なんて話は、日常感覚と断片的な情報から想起される人物像をもって帰因させられうる話ではないように思った。そうした状況への警鐘、という意味では、『検証 ナチスは「良いこと」もしたのか?』と共通していると思う。専門知のありがたさや大切さを身に染みて知ることが如何に大切か、ということを改めて。