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【読んだ】金川晋吾『いなくなっていない父』

制作の動機と逡巡と思弁を延々と語られる事には辟易することの方が多いのだけど、この本には不思議と引き込まれてしまった。防衛的であるように読めなくも無いのだが、そこに卑近さがない上に、普遍的な写真論として無理なく昇華しているのが良い。きれいに三幕に分けてる構成だったり、最近の思想的トピックをそうと言わずにめちゃくちゃ的確に換言してたり、文章もスマートだと思った。

おそらく著者は写真が本質的に孕む暴力性を自覚しようと努めている様に思うんだが、その暴力性は、例えば父親に自死を演じさせる事や全国に顔を晒す事ではなく、状況を意味付ける事(有限化)にある様に思う。それ故、ギリギリまで判断や意味づけを留保する事と、写真を撮影するという事、このふたつの関係が一貫して述べられていた様に思う。著者が「見る側」から「見られる側」に回る事でこれを再認する仕掛けは上手い。

「父の写真を撮ろうとすると、父のことをファインダーごしにも、肉眼でもよく見ようとすることになるのだが、それは父という人間についての関心に支えられているというよりも、むしろイメージ化することへの関心に支えられていた。そして、イメージ化への関心が高まることは、父その人への関心はむしろ薄くなっていくことにつながっていった。写真を介在させることにより、いちいち問いかけたりせずに、ただ見続けることが可能となった。それはいわば、判断を下さずに見るということ、見ることに留まることでもあった。」(P101)

「私はそんなことをちゃんと考えたことがなかった。「そういう種類の考えるべきことがあるのだ」と、質問されることで初めて気がついた。これまでちゃんと考えたことはなかったにしろ、何か漠然と感じていることはあるはずなので、それを何とか言葉にしてみようとしたが、結局うまくいかずに、「あまり考えたことがないですね」とか「よくわからないです」とか言ってしまうことになった。/私が父を撮り始めた2008年ごろ、「何が理由で家を出たのか」「今、どういう気持ちなのか。何を考えているのか」「これからどうするつもりなのか」と問いかける私に対して、父は「わからない」「考えたことがない」「考えていない」「考えられない」を繰り返していたが、私はそのときの父の気持ちがわかるような気がした。」(P212)

#金川晋吾
#いなくなっていない父