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【読んだ】藤原辰史『給食の歴史』

『トラクターの世界史』に続けて『給食の歴史』を読んだ。2冊に共通するのは、国家や戦争に関わる世界史的な転変を「食」に関するトピックを通じて記述する手法だった。それはいわゆる「正史」を裏面からなぞる。例えば『トラクターの世界史』は、T型フォードと余暇の発明ではなく、トラクターの発明による農業生産の変化と共同所有制度の発生からモータリゼーションの歴史を描き出す。『給食の歴史』でも藤原は、ペリー来航とララ物資のどちらが日本史を大きく変えたのかと問いかける(P101)。

なぜ「食」なのか。単純に言えば、食という行為が自然と人間の「しがらみ」を最も露骨に顕現させるからではないだろうか。藤原は『分解の哲学』の中でこう表現する。

人間もまた口から肛門まで一本のチューブを体内に有し、台所とトイレをつないでいて、この内なる外の空間で生き物や死んだものが蠢いている。

『分解の哲学』P273

人間は生態系の中の一つの「分解者」に過ぎないのであり、自律した政治的主体や経済的主体というフィクションは脱臼させられる。食を通じた歴史は、ヒトという生物種が、身体と世界を強く関係させながら社会を営んできた痕跡を浮かび上がらせる。エリアスは食事作法の改善に「野蛮」から「啓蒙」への文明化をみたというけれども(P128)、逆に言えば、食という行為に過剰にまで文化的装飾が為されるのは、それが排泄や生殖にも似て、人間の生物的な側面が顕になるからではないだろうか。

例えばそれは、制度と身体の距離を縮める。本書が給食制度の由来として描くのは、兵役のための栄養改善、戦時下日本での軍国主義的な「体位の向上」、アメリカによる戦後日本の占領戦略、アメリカ本国の余剰農作物の市場開拓、新自由主義改革による教育合理化等々、統治や経済戦略といった(それ自体は聞き覚えのある)政治的意図である。しかし同時に本書が徹底しているのは、この手の政治的意図の中に生きた市井の人々の実践を丹念に描き出している事だ。例えば戦時下に行われた、熊本女子師範学校附属小学校での給食実践。表向きは皇国教育的な滅私奉公の精神をなぞりながら、実際には、戦後給食制度にも連なる民主主義的な共同性が実践されていた。あるいは戦後の給食センターへの反対運動。給食合理化のため、複数の学校の給食を一括で調理するセンター方式に対しては、いち早く反対運動がなされたという。その批判の論理のひとつは、各学校の給食室で調理を行う自校方式に比べて「顔が見えにくい」という事だった。給食をめぐっては、「学校栄養職員、調理員、教師たちはもちろん、文部省、厚生省の役人も、GHQやアメリカ政府に黙々と従ったわけではなかった」のであり(P258)、こうした運動が制度のかたちを大胆に変えていった数少ない国家プロジェクトが給食なのだ(P251)。それは「日常の疑問から生じた運動が国家を動かす」ものに違いないのだけど(P231)、そこで言われる「運動」とは、いわゆる政治運動にとどまらない。「給食自体が不確定、不明瞭で毎日変転する生の「運動」を扱う以上、制度は毎日のように更新されなければならない領域」なのである(P253-254)。

またそれは、公的サービスの本質を浮かび上がらせる。給食制度の萌芽には必ず、貧困、飢餓、災害があった。給食制度が一貫して維持している基本的性格は、貧困というスティグマの回避であり、給食史のの裏面には「弁当が貧富の差を映し出す媒体だった」という事実がある(P43)。給食費未納者の給食の停止は「行政による虐待」であるのはもちろん、スティグマの回避という原則を守り続けてきた「給食史の現代的な頽落」である(P246)。給食は災害時のセーフティネットであるばかりではなく、「給食は綱渡りの人生を死から救うというよりは、そもそも綱渡りをさせずに人生を歩んでいけるためのものである」(P250)。

無論、食をめぐる自発的実践は、容易に行政の怠慢の正当化にも転化しうる。なぜならば「新自由主義は家庭内の各々個人の衣食住の工夫と自助を称揚する」からだ(P235)。例えば給食費削減のための弁当持参は、「家庭の努力と愛情」(P226)や、「母親の愛情」(P227)という言葉によって正当化される。それは言うまでもなく、受益者負担というお題目のもとでの行政の責任放棄に他ならない。

考えてみれば、「食」ほど、信頼を必要とする行為もない。この本を振り返って印象に残っているのは、人が何かを食べる具体的な描写である。「日本一おいしい」という給食を著者が食べる描写は本当においしそうだったのだけど、むしろ、「子どもたちの野性」が繰り広げられる給食時の悪戯、脱脂粉乳をめぐる腹痛と下痢の話、そして敗戦直後の戦災孤児たちの苛烈な食体験(P79)が印象に残っている。そこで想起されるプリミティブな身体感覚を手放さずに、制度や歴史を捉えること。「食」は、生の根本にあり、身体と直結しているが故に、国家と個人の緊張関係を常に露骨に示すフィールドなのかもしれないと思った。