ほとぼりが冷める、あるいは禊はすんだ
コロナがしだいに落ち着いてきた。外国では、ワクチンは日本以上に接種が済み、ソーシャル・ディスタンスやマスクなども浸透し、社会実験として経済活動を回復させている国もあるという。
実態や第6波がどうあれ、もう1カ月、コロナは蔓延や病床逼迫という状況ではない。専門家は、まだまだ安心はできない、終息などは、まだという感じである。
現実的な感情としては、コロナ一服にせよ、原因不明の新規感染大幅減少はは事実である。
もう1年半、コロナコロナで疲労仕切っている。
しかし、それを通り越して、コロナは終息したかのごとくである。
皇室眞子内親王の皇室のしきたりを否定した結婚、国を挙げての総選挙、当然ではあるが、コロナは、あまり問題視されていない。
すぐ忘れる。
オリパラの時は、それなりに意見や問題はあった。今回は、そういう懸念は払拭されたかのうようである。
そこで、個人的なことで、問題提起したい。
裁判が最高裁まで行って、最終的に確定した事件、想うのは池袋のアクセルとブレーキ踏み違いによる母子死傷事故の禁固刑確定、近くは個人的に関心のあった寝屋川被保護者監禁致死事件である。
前者は、全国的に大々的に報道された、後者は知る人ぞ知る大事件である。禁錮や懲役といっても、もう他人事、おそらく収監され執行されているのだろうけど、過去の話になっている。
それが提起された問題、高齢者の自動車運転、アクセルとブレーキ踏み間違いとかの問題は、本人の問題として忘れられている。また、寝屋川の事件、これも社会から、まったく無視された状況で、精神障がい者の治療や処遇のあり方など、全然、気にもされていない。
だから繰り返し、同じ事件が起きる。
専門家は、コロナで忙しいのだろう、医療は、それでいいのですか。
日本人、これを、ことぼりをさます、あるいは禊は済んだという。
なかったことにする。