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余生とは、なにか

 通常、何も考えず遣っている語彙(ボキャブラリィー)ではある。
 もう人生終わりかけている、あるいは用済みの人の残りの人生、年功制度で、学校(高校や大学、昔なら小学校、中学校)を卒業して、一般的に、企業へ終身雇用を前提に就職、多少の転勤や異動は経験しつつも、企業が決めた定年や再雇用(再任用)期間を終えて、子弟も成人して独立した状況にあり、親も亡くなるか介護の状況にあって、年金や所有資産で悠々自適の生活をしていることをいうと思う。
 私も、ほぼそうだ。ほぼというのは、子弟(娘たち)は自分の収入だけで生活しているわけではない。親の家で同居している状態ではある。
 それでも、私自身は、余生だと思っていた。
 その主な職につくまで、紆余曲折はあったが、定年まで勤めるつもりで採用された。時代が変わって、定年後も同じ組織で再任用した。2年で退職し、別の組織へ再就職した。1年足らずで退職し、あとは65歳までアルバイトなどで過ごした。職業的には、アルバイトも職業として。
 そう思い込んでいた。
 職業への考え方を変える必要がある。終身雇用は、絶対でないどころか、空虚化している。企業もどんどん成立形態がかわり、いつまで持つか企業自体怪しくなっている。
 そうなると、余生という考え方は、根拠・基盤が薄くなっている。
 もちろん当分、あるいはずっと似たような就業形態はあるだろう。
 すくなくとも余生という考え方を見直さなくてはならない。
 特に、45歳以下の若い人、実年世代は。
 厳しいものがある。
 年齢的に、早い時代から、余生の反対、現役とでもいうか、そのときから死ぬ、あるいは現実の生活ができなくなるときまでのことを、真剣に考える。
 いまの余生は、好きなことができる。
 本当だろうか。
 仕事、仕事で追われて、組織内での昇進いわゆる出世が、フィールド内での競争であった。これから、そのフィールドを外して考えよう。
 若いうちから、趣味や読書など、その人その人が、余生にやろうということを見つけ、愉しむべき時代である。
 終身雇用を終えて、すぐボケて死んだということのないよう注意しよう。
 働くことがすべてではない。
 人生ってなんだろう、そんなことを若い時から考えよう。
 余生は無い。
 組織内での出世は、もう過去のこと。忘れよう。
 辞めるとただの人、存在しないのだ組織や同僚・部下にとっては、もう。
 おやすみなさい。
 

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