夕方散歩で感じたこと
散歩エリアは、発展・拡大してきた新興住宅街から旧農村部、農家は少ない。昔風なら、広い水田や畑の間に道があり、その周辺に広い農家があり、自動車が数台、その他農機具、トラクターやコンバインなどが並んでいて、濃厚用具が様々置いてある。それは思い込みがある、農家とは、そんな感じだろうと。
自動車が1台通れるかどうかの狭い道、小型バイクや自転車なら通れる。夕方に近い下校時でもあったので、小中高生が数名単位あるいは単独で、流れるように帰宅している。
この地域では、体操服のような制服、たまたまそういう行事だったのかもしれない。私の居住しているところでは、小中学生は、制服は少ない、場合によってが変だけど、多様だ。自分の感想からいえば、私服では大変、服装にいろいろ気を遣うのは、個人的には面倒だ。多種類あるわけでもないし、身体の成長は、著しく、去年の服では、今年の身体に合わない。親は、そうそう多種類のこども服は買う資力がない、それはこどもでも十分わかっている。親を責める気持ちもない。制服で十分。
学校は、遊びに行くところではない、勉強、運動、その他社会へ出る能力をつけるために行くところだ。成人して、わかった。それを小学校、幼稚園の段階で徹底的に教え込んでほしかったと、教師や親に言いたい。わかれば、自分のため必死でやったことと思う。わからんけど。
なんか暇潰しや親の手間を省くって感じ、あるいは、行けというから行く程度の感覚しかなかった。
それを子供に教え、叩き込める親が本当に子を想う親だろう。
しかし、自分もこどもに教え込めなかった。自分が家族のために稼ぐのが精いっぱい、上級国民かその他一般国民かは、そこで決まると思う。
それも教育による選別の一環だ。
教育は、評価よりも成長を助けるのが目的なのに、選別だけ。
大学入試でも、入ることより、大学でどう学ぶかを指導するべきで、ただ入試に通った者を企業など社会機構に渡すだけの存在では、意味がない。
全員入学させて、ガンガンに勉強・学習で鍛え、脱落する者はどんどん脱落させる。人気のあるクラブ活動と同じ。はじめは大人数で、ろくに練習もさせてくれない。人数が減って、練習も可能な人員で、始める。
そうさせたら、大学も少しはよくなる。
入学金・授業料払ったら、最後まで学生に徹底的に勉強させる。
しかし、勉強させる気のない大学もある。
昔を振り返ってもしかたない。
人生いろいろなことが言えるのではないか。
応用編です。
わかるのが遅かった、いや何事も遅くない。
すれ違う大勢の中高生を見て、そう思った。