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母の死を超えて

 ついに、その時がきた。享年95歳、若くはない。もう意思の疎通も途絶えて数年、認知症もかなり前から、永年住み慣れた土地を離れず、兄弟・親類、知人・友人が相次いで先立ち、あるいは生きながらも会えないことが多くなって、一人では暮らすこともできなくなった。ホーム、そして病院とお決まりのコースだった。

 孫を見れば、母親の存在は、ものすごく大きいのがわかる。母親が見えなくなると、「ママ、ママ」と大騒ぎ、とても祖父が代われるものではない。納得ずくでないと、一時的なお守りもままならない。しかし、それも十代半ばまで、社会性を持ち始め、自意識が発達してくると、母親は、抑圧する典型になってしまう。それが過剰反応だったことを知るのは、自分自身が結婚し、子を持って、はじめて理解できたことだった。

 成人してからも、いろいろあった。少しでも親高校の真似事、孫の存在が母親にとって、どんなに嬉しく、愉しいものであるか、自分も孫をもって理解できる。母は、わずかな収入や貯金、そして年金から孫へ金品の贈与をしておいたようだ。その処理をやっていて、ほんとうに母の有難みが痛切に感じられた。有難い。障害を持つ娘に、特に、その思いを残しているのが泣かせる。

 コロナで病院は面会禁止。定期的に電話で病状や経過を尋ねていた。この9日、「喘息が出ています。特に、生命に異常はありません。」との内容、次の日、「重篤です。まだ、すぐという状況にはなりません。お知らせはしときます。」、次の日、「危篤です。すぐ来てください。」私の住むところから病院まで新幹線や電車、バスで4時間、やはり間に合わなかった。2回目の電話のとき、夜半ではあったが、面会禁止ながら、扉越しに垣間見ることができ、母も気が付いたようで、看護師さんに「話がしたい。」と6人部屋で同じような症状の人たちがいたので、翌日ということになった。翌朝行くと、眠り込んでいた。ぐっすりと。それでもげんきな姿を脳裏に残せただけでも有難いことだった。

 様々に苦労をかけた。やむを得ないこともあった。成人して、よその土地に住み着き、家を建て、故郷に帰ろうとしない息子に不満を持ちつつ、よく我が家へ来て、しばし孫と歓談、喜んでいた。娘の一人が結婚して、ひ孫ができたときも大喜びだった。苦労をかけたお返しのひとつ。

 いい息子ではなかった。能力いっぱいはやった。

 通夜、葬式無事終わって、脱力感があった。終わったと感じた。

それはそれで、人生の区切り、大きな一ページ、みんな通る道。


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