
自由の哲学 第1回:26年前の問題
自由、というキーワードはちょっと恥ずかしい。だからなのか、自分の仕事では前面に出すことがなかった。いや、正確には、『勉強の哲学』では少し自由と言っている。自由になるための勉強と。でもそれは「ゆるい言い方」だと思っていて、哲学的な厳密さを犠牲にしたつもりだった。自由をめぐる哲学的問題に正面から取り組むのは回避してきた。自分の問題がそれだとは思っていなかったのだが、というより、直視したくなかったのかもしれない。
『動きすぎてはいけない』では、ドゥルーズの文脈からできるだけ離れずに、「無関係」というテーマを扱おうとした。無関係が大事だと言うと冷たい人みたいに取られると思うが、僕が接続過剰から切断=無関係へ、と言うときには、「関係性のために息苦しくなる経験」がまず念頭にあって、そこから逃れる、つまり「自由になる」とはどういうことかと考えている。包み隠さずに言えば、「関係性のために息苦しくなる経験」とは第一に、家族関係だ。とくに、性的マイノリティがヘテロ規範的な家族のなかで肩身が狭い思いをし、言いたいことも言えず妥協したり、「こそこそ」したりしなければならないということが第一に想定されている。
自由にものを言っていい、自由に生きていい。のだろうか。表面的にはそう言われる。が、それを深く理解するのは簡単なことではない。
遡ってみる。
僕は高校のときに、「現代美術の鑑賞は自由だ」という主張からものを書くことを開始した。高校一年、1994年の、夏休みの美術の課題で、僕は、現代美術は食べ物を味わうように鑑賞すればいい、抽象的な作品では「料理性」が高いのだ、と論じた。「現代美術の料理性」というフレーズを思いついた。
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?