イタリア料理大好き:油といかに付き合うか?
1960年代にイタリアの食事傾向(オリーブ油の消費量)と心疾患を調査してアメリカに比べて心疾患が少ないという現象を見つけた(と思い込んだ)。
これは「地中海型食事のパラドックス」と言われている。日本の食生活も調査され「和食は体にいい」という愛国的な思い込みも生まれた。
しかし、最近では各国(アメリカ・イタリア・日本)のその差(心疾患の発生)はなくなっている。ガンを始めとする「病因のない症状」も変わらないだろう。「先進国」と言われる国々の状況はあまり変わりがない。
脂質の体内循環の内に一般の細胞内でも「脂肪滴」として保管される。脂質は細胞膜を作るための大事な素材である。体内でどの様に「代謝(常温での生化学物資の変化)」されるかということが重要である。
社会の形を考慮に入れない食事調査など意味がない。
1960年代を考えれば、アメリカでは、既に家族というシェルターが崩壊した時代である。これを先進国という。
後進国であったイタリアも日本も「家族」というスキームが残っていた時代である。そのスキームがあったからこそ家庭では食事を作ることが出来たのだ。同じ遺伝形質のヒトのコミュニティで近く(輸送手段も保存手段もない時代である)の「採集農業漁業畜産の産物」を利用して食事が作られていた。そしてその食事の正当性は長い家族の歴史が裏付けていたのだ。
「家族というシェルター」は三世代の女性系が経験的で抑圧的なOJTで維持されていた。そして食事に文句は言えなかった。家族というのは「貪欲を戒める檻」でもあったのだ。
この時代の変化は開放でもあったのだ。表面的に見ればだが.......…。
この時代は「家庭=企業・農家・商店」という枠が破壊され、「サラリーマン」という階級が生まれた。給料は家族を維持、老後の生活をするために十分な金額があった。「年功序列と終身雇用、家族的経営」はヒトとして生きるために必要な利益分配であった。サザエさんの時代である。
核家族化は食事のアウトソーシングが必要になる。同時に何を食べたら良いのかという当たり前の「知恵」も失われた。
自然は空白を嫌う。医学や栄養学というインチキおじさんに妄想(誰にでも健康になる食事が有る)に求めるのだ。
オリーブオイルは特別な力を持っているわけではない。
和食も同じである。箸使って米食えば和食なわけではない。
センターキッチンや時間が来たら半額になる弁当は「生命:立体構造をいじしたタンパク・脂質、構図の中に微量ミネラルを持つ」をその工程の内に破壊する。「乾燥・濃縮・抽出」「バイキンも食べようしない腐らない食事」は私達を長く生かす。管だらけにして死ぬまで終わらない「治療」と「施設・病院、ICU」という「安心安全な箱」の中で財産を献上させる。
小さいミイラのようになって頑張ったねと褒めてもらえる。僕はまっぴらだ。
僕の解決
食事を素材から作らなくなったのが原因だと思っている。私たちのもう一つの問題は「依存」である(この話はまたいずれ)。
ピンコロの人生の終わりを迎えるために毎日食事を作る。
伝統に敬意を払い家族を想い、確固たる決意を持ち人生に向き合う。
輸入食材のお店で仕入れしたのだ。コーヒー豆が半額であった。
市販のピザを焼くことにした。
6時間後、今日は妻のパートなので天ぷらを作った。
料理作りは終わらない。
今では、食事作りが生活の真ん中にある。
楽しいことである。