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ターミネータは「1」に限る。時空を超えた愛の物語
ラスト・アクション・ヒーローという映画を、僕は大好きなのだ。主演したシュワルツネガーさんが大好き。気がつけば、ターミネーターシリーズ(3〜)以外の映画はほぼコンプリートしている。
ヒット作の「続編」って嫌い。
まあ、金になるというのは分かるが、なぜこんなに素晴らしい物語を台無しにすると何度思ったことだろうか。シュワちゃんが有名になって悪役嫌だなと思ったのはまあ、仕方がないが......。
その意味で典型的なのは、「ターミネーター」である。低予算で作られた「1」は最高の宝石である。しかし、その後の作品は見るに堪えない。
この映画は実にチャチで、最後の「CG」は当時にしては凄いなあと思わせるものが有ったが、それなりである。今から考えると、ちゃちいのである。しかし、最高のSFなのだ。
それは人が描かれているからなのだ。映画は「びっくり箱」ではない。人を描かねばならないのだ。僕らは生きた人の姿が描かれているスクリーンに自分を見出して、現実に負けないで生きようと思うのだ。
この物語は、「自分に自信がなく何やってもヘマばかりする女の子が、サラコナーズになるまでの成長の物語」なのだ。僕はラストの彼女の凛とした表情に泣いてしまう。
もう一つ凄いところは、この物語が、「本当に未来からロボットが殺しに来たのか」分からないのだ。みな、サラの幻想だったと言っても矛盾がないのだ。だから、納得できるのだ。
「2」は蛇足以外の何物でもない。製作者がターミネータワールドを作って大喜びしているだけである。設定を勝手に作り、あたかも未来の予言であるかのごとく展開する物語など、あっという間に現実に追い越される。
「2」のラストで物語は円環を描き、整合性が取れたように見える。しかしながら、現実はもっとヒドイ方法で『機械(を道具として金持ちたち)』は私達を支配している。
本当の問題は、自分を支配しているものに向き合うことなのだ。
そして「1」はその力こそが重要なのだと語っている。
『多くのSFと銘打った「びっくり箱」』は同じ運命をたどる。どうしてあんなものを作ったのだろうか?「2」を見に行って悲しくなった。それ以来僕にはターミネータは「1」しかないのだ。
そして時空を超えた愛の物語なのである。
「ターミネータ1」は最高の映画である。
20代の頃、何度目かの転職で不動産屋の手下の住宅情報誌で働いていた頃である。いつも怒られていた。この映画と出会った。1984年の製作でその翌年ぐらいのに出会ったであろう。会社のIBMのパソコンをいじりだした時期である。何とか、ここでないどこかに行きたかったころである。
この後、会社に頼んで当時100万以上したappleのマッキントッシュIIと言うマシンを買い、不動産情報誌の電算化の担当となった。
映画館の暗闇の中は特別な場所だった。ときおりあの時代を思い出す。年とたものである。
東京中に名画座があり、休みの日は会社に出たあとで名画座に行った。ビデオがようやく普及をはじめてはいたが、映画は映画館にいかなければ見れなかった。そして、それは不便ではなく、特別な空間を僕らに与えてくれた。
中々見ることの出来ない映画を特別に上映している映画館で、同じ様にその価値をしっている人たちとともに見た記憶は忘れられない。
このお話の続き
そもそもは、夏の日の朝顔畑の出来事であった。
筒井康隆さんの「走る取的(1981 メタモルフォセス群島 )」がネタ元だと思っているのだが、僕の勝手な妄想である。あの小説も怖かった。
この人も怖かった。
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