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ポテサラ爺さんに僕はなる

ポテサラ論争というのがあることを最近知った。まとめのような記事を読んで感じたことである。

家に座っていて、ポンと出てくるとしたら「20時に半額になる売っているポテサラ」と「家族が丁寧に素材から作ったポテサラ」どちらを食べる?

まずは、それを考えるべきだ。「食事の価値」の問題だ。

売られている食べ物のほうが良いというばそれでいい。『好きで食べている、栄養士の太鼓判付きだ、宗教的な理由だある』とか理由はいくつでもある。

「ポテトサラダくらい自分で作れ」と言われてブチギレた方は、爺さんにこう言い返せばよかったのだ。

私も自分で子供に食事を素材から作ってあげたいと思うの、けどね共働きで働かなくっちゃ生活できないのだから仕方なく買っているの。

もし、そう考えているならばであるが。勿論、栄養士が監修しているポテトサラダのほうが素人が勝手に家で作るより健康位に良いから食べてるのです。と言うならば別である。

もし本気で20時に半額になる食事の方が、手作りの食事より良いと思うならば別だ。確かに、食事は重要だ。素人が勝手に作るものではないというのも分かる。栄養士や医師の言いつけを守るべきなのかもしれない。彼らが太鼓判押した弁当かって食っていると良いのかもしれない。ドッグフード食べさせているからペットたちは長生きするのだという。食べたがらなくともペットのために食べさせるべきなのかもしれない。

こう考えると、問題は作らないことではない。作ることが出来ない状態にあるのだ。ではどうしたらいいのかということになる。

売っている食事とはなにか

「売っている」というのは定義がはっきりしていないので定義するならば、商品化された「完成された食事」で廃棄処分になる前に半額になるもので、僕のような貧乏人が選ぶもの。である。

高級レストランで一皿数千円のポテトサラダは(売られてはいるが)これに入らない。多分僕が作るのより美味しい(笑)。

薄利多売でメーカーに大きな利益が入る商品が問題なのだ。カップ麺などあれ作っているメーカーはどでかいビル立てている。食い物は儲かるのだ。とにかく皆毎日3食食べる、食べないわけには行かない。

炭水化物などは誰でも文句を言わないで食べる嗜好品でもあるが麻薬と違い合法的だ。オヤツやスイーツの形を取ればいくらでも消費してくれる。

お店で売っている「食事」は仕入れが40%だ。250円で売っている食品があるとすると100円少々で「材料費、人件費、運送料、入れ物代(後片付けがいらない)」みな賄わなければならない。その上、金額に従って、満腹にならなければならないのだ。

ポテトも「フレッシュ」ではないかもしれない粉末にして、作るところで水で溶かしてマッシュポテトにして、ソースはコーン由来の多糖☓✗とか言うものが混ざりすぐに満腹になる。必須栄養素は満遍なく振りかけられているから「医師や栄養士」は満点のをくれる。何処かの「ブランド」になっているだろう。とにかく、消費者は目が高い。食事が自分の命に繋がっているのだから迂闊なものは選べない。

なにか起こったときには、きちんと訴えなければならない。国のガイドラインに従って作られているかが大事だ(笑)。ガイドラインに沿っていればなにか起こってもメーカーの責任ではない。

勿論、作られている国も大事だ。何と言っても国産だ。国産ならば安心だ。作っている人が誰かも、最後にパック詰めだけしていたとしても、国産は安心だ(といいね)。

僕は、「商品化された食事」が私達を苦しめていると考えている。

ポテトサラダはかんたんな料理ではない

ポテトサラダ

僕はポテトサラダが大好きだ。様々な材料を自分の好きなように寄せ集め、ポテトはみんなを一つにするムードメーカーだ。タマゴとマヨや時に鶏肉が入ったりもする(注)。

料理というのは(単に材料を揃えて科学の実験のように)マニュアルに従って一丁上がりではない。仕入れから始まり、食べる人の好みを考え、遺伝的形質を考慮に入れ、その人のアレルギーや好き嫌いを考え作るものだ。

未来に責任を持って現実に向き合うのだ。

一人一人の向き合っている現実は違う、しかし家族はともに励まし合いながら、信じあい、今日を生きて食事をともにする(といいなあ)。

残念ながら、もはやそんな食事は作ることは出来ない。

今僕は苦しんでいる、毎日食事を作りながら、この食事が「正しいもの」なのかと問い続けている。

爺さんが言ったのは何が悪かった?

お店でポテサラを買っている人に、この爺さん、「そんなものぐらい自分で作れ」と言ったのであるが、何が悪かったのだろうか?

自分の子供が、菓子ばかり食って用意した食事を食べようとしなかったら、大体、家族ならば注意する。特に問題はない。

それは家族だからである。同じ価値を信じて生きている、そして何かあったら責任を取る事を約束しているコミュニティだからである。見ず知らずの人間にそんな事を言ってはならない。

お爺さんも家でそんな食事をあてがわれているのだろう。自分が若い頃家族が手間かけて作ってくれた食卓を思い出していると考えると涙が出てくる。

以前、コンビニで、おにぎりと缶チューハイ買ったお爺さんが出てすぐに飲みだしたのを見て泣きそうになった。僕もああなるのかなあ。

スーパーのレジに並んだ他人のカゴはは恐ろしくプライベートである。まあ、そんな事考えるのは俺くらいか(笑)。

同様にコーシャやハリールといった食事のCODEを実践している客にそれに背く食事を食べさせることは許されない。断薬中の依存症の人に薬すすめたり、小麦アレルギーの人に小麦のパン食べさせ(命の危険がある)るようなものだ。

食事はその人を作っているものだ。命である。他人の食事に口出しするならば命がけでするべきなのだ。共に生きる覚悟がいる。この魚旨いと言ってフグを他人に食わしたらどうなる?このキノコ綺麗だと言ってマタンゴを食卓に出すか(注)?

自分の食事に信念を持てないのが問題だ

何を食べたら良いのかと言う悩みは、いつ始まったのだろうか?もううすうす感じているのではないか?これだけ多くの人が検査値を正常にする薬を飲み、健康であると思い込みながら或る日突然、病気と言われる。

同じような手術を繰り返し、日帰りで簡単だと言いながら、次の検査でまた同じような手術を繰り返す。外部から毒が入ってきているわけでも何らかの欠乏症でもないなら、毎日の食事以外に原因はない。

ポテサラ爺さんに僕はなる

僕は、食事の価値をもっと多くの人に信じてもらいたいのだ。

そのために、毎日食事を作っている姿を動画でアップしている。一人でも多くの人に共感してもらいたい。

いつか、自分では何もできなくなり施設で人のお世話になる日も来るだろうが、その時は、半額になる弁当など食べたくない。贅沢な望みで有るが、夢見なければ叶うこともない。

「満腹」はわかりやすい検査値だ。誰もがそこのたどり着けばもう食事をやめる。やすく満腹になれれば食費は軽減される。だから20時に半額になる食事でも、家族の作った食事でも同じと考えるのだ。同じものなら安いほうがいいに決まっている。

「ポテトサラダ」と言うのはレシピの名前だ。しかし、実際に食卓に並ぶの「モノ」はみな全く異なったものなのだ。特に作られるプロセスを考えた場合大変な差がある。

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機会があったら僕のポテサラ食べに来て!

僕はポテトサラダが大好き。

妻がパートに出るときには作ることが多いからかなり作っていると思う。いつも新しいことを発見する。料理作りは楽しいものだ。しかし、生まれた時から作れる人はいない。学び自分で見つけることが大事だ。

マッシュポテトの状態で取っておくと後からグラタンに出来るし、コロッケにも展開できる。スパニッシュオムレツの中に入れるのもいい。

大体レンジで蒸すことが多い。他の料理とのあわせ技で作るとよろしい。

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ラムネ氏のこと

坂口安吾さんは「ラムネ氏のこと」と言うエッセイで人はなぜフグを食うようになったのかということを論じている。変わっていく世界に対応するために人も変わる。どう変わるべきなのかということを体を張って伝えようとするのが戯作者であるというお話である。

僕はラムネ氏でありたい。自分自身が信じているものを伝えるには、自分がそれを実践しているということを見せるだけでいいのだ。

僕は権威になりたいのではない。権威に頼ってはならないと思っているのだ。そしてその道は険しい。自分が権威になるには自分を信じなければならない。一番難しい。


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マタンゴ

これがマタンゴだ。1963年の公開なので、映画館では見ていないと思う。てテレビ放映だったのだろうなあ。ほぼ全編目を隠していたので後からあらすじを父に聞いた。これはトラウマになる。しかし、昔はよくキノコで死んだりしていたと思う。季節には気をつけろと回覧板に書かれていた。

マタンゴ


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幸運な病のレシピ
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。