雨の庭、朝顔、あじさい、芭蕉、山葡萄、雨歩き、バブアー
もう梅雨なのだろうか。梅の実が多く落ち始めている。歩くとボリボリと音がする。剪定しないと実が混んで多く落ちる。枝で熟するのは少ない数になる。よく出来たものだ。
落ちた梅は土を豊かにする。実生となって芽が出るのはほんの僅かである。それでも、50年で4本になった。最初の一本はもうボロボロで根本から別な枝が新しい生を営んでいる。
雨は、庭を生き生きとさせる。僕は大好き。
池の鯉は雨粒を餌と思うようだ。時折ポカリポカリと雨粒を食べようとする。見ていて飽きることはない。「おいおい、それは餌ではないよ」と一人一人に話しかけたくなる。
鯉に「雨」を説明するのは難しいだろうなあ。
蕗の群生が他の草花に埋もれておる。もう少しすると蕗が消えて、茗荷が残り、紫陽花がデカイ顔し始める。うちの紫陽花は青ばかりである。
茗荷も嬉しそうに伸びる。赤紫蘇が生えているが、梅干しには量が足りないようだ。もっと生えるかなあ。
草花に感情などないというのは愚かな思い込みだ。動物でも植物でも、生は喜びであり、死を迎えるのだ。植物の生命の単位は「葉」なのだ。毎年世界を感じながら生きて、秋に散っていくのだ。
散った葉は、菌類が自分の細胞へと代謝(食べる=作り変える)して、蟻やカナヘビ、と大きな生命が受け継いでいく。梅は、梅干しに発酵して姿を変えて僕の身体に入ってきて僕の一部分になるのだ。
年老いていくこと、死ぬことさえも「生」の一つのプロセスなのだ。そんな事を考えるのは年取った証拠である。
少しすると暑い夏が来て、秋になり、次の世代に植物たちは生命を渡す。
雨の日の強い味方である。バブアーは雨を楽しみにしてくれる。修理に出してよかった。
買った当時のパンフレットとオイル、リペアキットを探しているのだが、見つからない。
絶対に捨てていないものが見つからないのはなにかの法則なのだろうか。マーフィーに聞いてみたい。多分、忘れた頃に出てくるのだろうなあ。これも小粋な警句が有るのだろう。いまいましいものだ。
昨年5月に生まれた鯉の子供が大きくなってきている。かわいく見えるが貪欲である。あっという間に大きくなる。池の鯉たちは4年目である。あっという間に子供は大きくなる。
庭に出て花を摘むに下駄を出した。この履物の一族をもはや見ることもない。舗装道路では音が大きすぎる。庭付きでなければ持つことが出来ない。贅沢な履物である。
仏壇には庭の花を置くことにしている。花が尽きることはない。
今年連れてきたバラが新芽を出している。面白いものだ。
バジルである。少し混んでいるので、プランターに分けようか。パスタが楽しみだ。
百日紅の花が咲くのが待ち遠しい。母が好きな花であった。
朝食を見せびらかしていたら一枚食べられた。
楽しいものである。
今日は一日マユと二人である。
仕事しなければないのになあ。
厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。