今日は休日の一日、庭いじり、スーパーで買物、妻の弁当作り
すっかり魚屋さんは消えてしまった。それでも車で30分くらいのところにあるスーパーは丸のままの魚を並べる。冷凍を通っていないし加工工場でバラされて部分だけがパック詰めされているわけではない。
素材から料理を作ることで海の中で多くのマイクロンバイオーム=プランクトンからに連鎖していく「生命:立体構造を維持したタンパク・脂質」を食事として受け取ることが出来る。
内臓ごと、血も含めて調理するというのはとても意味のあること。微小ミネラルはマイクロバイオームから始める食物連鎖のうちに各臓器で「生命」の内に維持される。そこから分離されたら生体では使われないのだ。一物全体食というのは大事なコードである。
このスーパーは「生命の井戸(失われたアーク)」である。
魚をさばいている人が出てきて袋に入れてくれる。
大変丁寧に食べ方を教えてくれるし、何処かのお店の人が沢山仕入れに来たりもしている。
本来お店と言うのは人と人が出会い知識をもらうところだ。お客さんお言葉に店の人も学び反応して変わったりもする。
昨今のスーパーはコンプラ重視で「人と人とを接することを禁じるかのごとく」マニュアル化する。そしてお客様主体という。
間違えている。
「人間主体」でなければ、お店は商品を流すベルトコンベアでしかない。
食事を扱うと言うのは生命を扱うということである。
客も店員もそれぞれに人生を持ち「感情も苦しみも喜びも」共に感じるべきなのである。スマイルを0円で売るようなマニュアルを僕は憎む。
僕はお客さんのカゴの中を見るのが好きだ。そこには人生が詰まっている。
家族での楽しいひと時が見えたり、心が痛む生活が見える事もある。
何年も前にコンビニからお握りと酎ハイを買って出てきてベンチで飲み食いはじめた老人を見たことがある。居たたまれなかった。僕の未来だろうか?
歩いていける範囲に八百屋さんと魚屋さん肉屋さんがあった時代は、お客さんの台所がそこに繋がっていたのだ。
そしてお客さんが息災に生きることがお店屋さんの喜びであった。
懐かしむ必要はない。しかし、覚えておくべきことなのだ。
それが「食育」である。
庭いじりに今年はじめてのBarbourを着た。秋になったのである。
本当にこの数日は辛かったが、サーバーで上手くシステムが動いてくれて良かった。