「子どもの貧困」って、おかしな表現ではないかい。親は貧困ではないのか?親は自己責任だから良いのか?
子どもの貧困のCMを最近頻繁に見る。子供が貧困だということは、親はそれに輪をかけて貧困なのではないか?
親は貧困でも良いのだろうか?好きで子供を貧困にしているとでも思っているのだろうか?どんなに働いても未来が見えない人生というのは辛い。本人に能力がないせいなのだろうか?
アルコールや覚醒剤に依存して破綻してしまった人生を送るのが望みの子供なそいない。みんな昔は子供だったはずだ。おとなになる途中で(学校で)追い落とされ世間の皆にはじき出される。そんな仕組みが当たり前だと思っている親がおかしい。学校はもっとおおらかで楽しかった。
今は誰もが他人を追い落とす。
僕の小学校の頃の先生、九九が出来なくて相談に行った母に、おとなになれば皆出来るのだから安心しなさいと言ってくれた。僕はお風呂に入ると母に九九が皆間違えなく言えるまで風呂桶から出してもらえなかった。僕の風呂嫌いには理由がある。今ならば学習障害のADHDで投薬対象だたろうなあ。
行く場所がなくなって犯罪に走る。それは自己責任だろうか?教育というプロセスの中で「駄目」と烙印を押して居場所を無くするのが間違えている。
どんな親だって、子供には満足な生活させたいと思うに決まっている。パチンコ屋の駐車場でなったり、ネグレクトして子供殺した親を人非人と報道したいのは分かる。僕も子供が可愛そうだ。
けどね、親だって同じ人間なんだと信じている。もし自分がそんなことをするくらいまで社会に追い詰められていたとしたらどんなだろうと思う。
犯罪は憎むべきと人は言うが、もっと憎むべきは格差で大金持ちになっている連中だ。しかし、世の中のルールはそいつらが決めている。
子どもの貧困の動画を見るたびに、憂鬱になる。本当の問題はそこにはなかろう。
おとなになるまでは皆子供だったのだ。
あなたの子はあなたの子ではなく、大いなる命(いのち)の希求(あこがれ)の息子(こ)であり、娘である。
あなたを経て現れて来ても、あなたから生まれた物ではない。あなたと供にいても、あなたに属するものではない。
あなたの愛を与える事はできても、あなたの考えを与える事はできない。
子どもは自らの考えを持つのだから。
その身体を住まわす事はあってもその魂(こころ)までも住まわすことはできない。
子どもの魂は、あなたが夢にも訪れる事のできない、明日の館にすんでいるのだから。
子どもらのようになろうと務めるのはいいとしても、こどもらをあなたのようにしようとしてはならない。
生は後ろには歩まず、昨日を持つことはないのだから。
ジブラーン 小林薫訳『プロフィット(予言者)ゴマ書房』