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父と暮らす:2014年の父母との和解

家族で共に生きるとは、変わってしまったお互いの間で新しい関係を築き、ともに生きること。

この頃から、母の具合は悪くなり、大変な時期になる。何種類もの薬を処方され(数年前からであった)、身体の状態は悪くなっていく。自分では料理を作れなくなり、一緒に話をしていても昨日まで覚えていたことを忘れる、何度も鍋を焦がした、風呂もわかせない。毎日着替えを探す。ほぼ毎日つきっきりで暮らすことになる。父は車の運転をやめていたので僕が毎日のように病院や補聴器のお店に連れて行った。それでも、もう戻れないということを分かってくれ始めていた。いつ死んでもいいというのが口癖になり、少しだけ落ち着いて庭を眺める日があったりした。2015年は僕も母も大変な目に合う、つかの間の安らぎであった。


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僕には2人の子どもがいるが、この二人共同じように接することを心がけている。二人の場合は向こうが大人に成り、僕が老人になるのであるが、常に変わる自分たちを互いに信じあってともに生きることだ重要である。

残念ながら僕は年取ったとき、子供が共に生きてもらう可能性はない。私達は、皆そうなる運命なのだ。誰が悪いということはない、時代がそうなってしまったのだ。

介護は家族が持っていた機能を模している。だが多くの問題がある。ならば、もっといい形が現れるように頑張ってもいいだろう。

僕は父の食事を毎日作った。毎日一緒に食べた。忘れられない気付きがあった。きっとその経験は僕の30年後に何か与えてくれる。記憶が失われ、車の運転もできなくなるだろう。それでも、できるだけ人様の世話にならずに自分を失うことなく、ポコンと死ぬまで生きていきたい。間違いなく食事にこそ鍵がある。父母は教えてくれた。二人のように生きて死にたいと思う。そう思えたことだけでも僕は幸運だった。

家族というのは何が有ってもともに生きる決意を持ったコミュニティのこと。決して戸籍上の関係ではない。

2014年のことである。少し前に新潟から実家に事務所を移した。事業で大きな失敗をして父母の援助がなかったらもう生きてはいれなかった。だから、あの後の人生は父と母のものだ。

父母は、これから僕のたどる道を教えてくれた。

年取れば誰でも、こうなるのだ。施設や病院に隠すことで不老不死を実現した。しかし、いずれ向き合わなければならない現実なのだ。


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厨房研究に使います。世界の人々の食事の価値を変えたいのです。