理解できない隣人(家族)を「魔女として焼いた時代」、「精神病として隔離するか犯罪者として閉じ込める時代」
中世ヨーロッパにおける「魔女狩り」がやがて「精神病院」と「監獄」を発明することで「理解できない隣人」を生かしておけるようになったと言われる。
では、なぜ生かしておくようになったかというと、『「魔女の財産を没収する」のを禁止』されたからだという説が好きだ。魔女裁判やその他の経費は魔女とされた人の財産で贖われた。魔女がいなくなったら収入がなくなる専門家がいたのだ。今の医療の問題にも通じる。
魔女狩りをを経済の上から説明している。町内で気に入らないやつとか排除したい対象は多いだろう。僕は昔ワイドショーで大騒ぎされた騒音おばさんを思い出す。
無論その奥には、土地に縛られない労働者が生きていけるだけの「富の生産」が可能になったからという「産業構造」が変わり、都市(見知らぬ隣人の共同生活)という生活様式の発明があった。
今でも年取った家族を施設に入れたり、精神病院に入れるのは本人のためであるが、同じ様に家族の為でもある。そして決して責められる問題ではない。共倒れになるわけには行かないのだ。問題は、そうしなければ共倒れになるような生活を強いる「格差」社会にある。
オペラハットの精神病理学
オペラハット(1936年に製作・公開)というのは僕の大好きなフランク・キャプラ監督(注)の映画だ。『突然財産を相続した若者(ゲイリー・クーパー)が、その財産を失業者の為に使うといい出した為に、親族の訴えで精神病と診断され遺産の相続を阻止されそうになる』と言う物語である(ミステリーなら殺されるが、そこはキャプラの映画である)。
クーパーが自分は精神病ではないということを裁判で説得するところは実に爽快である。
最近リメイクされたようだが、ネタバレを読むとどうもこのシチュエーションではないようなのだ。裁判で精神病かどうかを争うのではなく、組合員を説得するという風になっているようなのである。オペラハットでは「精神病」を「こんないい加減なものはない」と馬鹿にして扱っているのだが、現代版のリメイクではそうは行かない。すでに精神病理学は確立された科学ということになっている(笑)。まあ、そのうち暇があったら借りてみよう、また面白いことが分かるかもしれない。確かによく効く薬が出てくるまでは精神医学は「加持祈祷呪い」と大差ない科学であった。
しかし、問題はそこではない。
「精神病」という診断はその人を(人道的に=焼き殺さないで)社会から追い出す道具となっていったのである。その流れは今につながる。
教室で、いじめられて保健室に登校する他ない子供は、見方によれば、教室と言う社会から追い出されているのである。教室という社会での希少な価値は「進学=高収入の未来」である。保護者は誰もが望む、しかし、それをえられるのは僅かである。
ADHDと認定すれば、よく効く薬を服用して教室にいれる。学校は大人の社会の縮図である。ではどうすればそこで生き残れるのか、同じ価値を求めなkれば良いのだ。ドロップ・アウトするか、アーチスト目指すかである。しかし、そちらの方が難関だ。
世の中は「希少な価値」をいかに奪い合うかの戦いである。自分に利益が最も集まるように「ディール」するのだ。「学校という政治的に公平な制度」において合法的に追い出すには「いじめ抜いて競争から脱落させる」就職したら仕事で追い込んで精神科で「診断させ投薬させる」。お前に能力がないからそうなるのだと周りは言うが、就職試験は公平などというものとは関係ない。大学までは形式的な公平さがあるから悪い成績になるのは自己責任だろうが、企業においてはコネと縁故がなければ面接さえもうけれない。
オペラハットでの主人公は正しかったのだろうか?
この映画の時代、フロイトが確立した「精神病理学」が権威となろうとしていた頃だからこういう風(呪いのようなもの)に精神病理学を扱えたのだ。
今では、分子標的型のよく効く薬が生まれたのである。本当に飲むと様々な症状を感じなくなるのだ。誰もが精神病の専門家が正しいと信じている。
しかし、問題はまだそこではない。
主人公はとんでもない金額の財産を捨てるのである。上手く行ったらその金を使えるはずの周辺の人から見たら、気が狂っているとしか思えない(笑)。映画の最後は裁判のシーンだ。精神異常だと言う医師の診断を受けて、財産の相続権がないと訴えを起こされる。主人公は、自分に見える世界を語り、裁判官に正常だと納得させる。
大事なことは裁判官が判断しているのだ。一般的な常識とその患者の置かれているシチュエーションを公平に見て判断する「裁判官」がいるのである。
しかし、精神科でカウンセリングされた時に、その人の人生をしっかりと聞くことはあるだろうか?家族の訴えを一方的に聞くだけではないのだろうか?
誰かが自分を殺しに来るという訴えを聞いてそんな馬鹿なことはないと医師は診断するだろうが、本当に殺されようとしてるのではないか?ひどいノルマをおし付けられて休みも取れなくて「うつ」になった時に「うつ」が問題なのか?ひどいノルマが問題なのではないか?
「拒食過食依存」は人間環境で起こる。では、母や父の対応が子供の異常な行動を生んでいるのではないか?昨今の「毒親」関係書はこれを意味している。では、どちらが正しいのだろうか?
よく効く薬は本当の問題を隠す。変えるべきでは患者ではなく社会の方なのだ。しかし。それは難しい。葛藤の内に私達は少しずつ壊れていくのだ。
問題はそこである。
正義の数は人の数だけある。正しさはそれぞれの人生、毎瞬間に異るのだ。自分自身でさえも変わっていく。世界と向き合うにはどうすれば良いのだろうか?
医師が決めることではないのだ。ではどうすれば良いのだろうか?
いかにしてこの狂気の世界に向き合えば良いのだろうか?世界が正常ならば異常なのは自分だ。しかし大多数の人は、他の人はちゃんとしているという。だから自己責任なのだという。
それぞれの人間の生きている環境は全く違うのにその事は考慮に入れない。自分がそんな立場に落とされるコヨなどコレッポチも考えないお気楽な連中である。
ワインバーグ博士の「狂った世界」に対しての処方
僕の大好きなシステムエンジニアの「ワインバーグさん」はクライアントの要求に対して「異常な姿の奥に合理的な理由を見つける」事で自分の正気を保つのだと書いている(注)。
この世界は狂っている。僕が狂っていると世界の人々は言うだろう。しかし、それは両方とも正しいのだ。僕の利益は他人の損失になるのだ。仲良く分け合うなどということは「神様」が公平だった時代の思い出だ。神様は何も言わなくなって何年にもなる(注)。
家庭という出張所を失って宗教は見事に消え去った。誰か上にいて、「悪いことをしている人間には天罰」を与えてくれていた昔にはもう戻れないのかもしれない。人生というディールにおいては弱者から搾り取り、自分に忖度する連中に与える事が権力なのだ。天罰が与えられないから弱者が餓死しても気にならないのだ。
「緊急避難」という選択肢
問題は、僕自信も彼らと同じなのだということだ。金を持ったところで、人を助けるために寄付など出来ない。自分の未来もどうなるかわからないのに人を助けることなど出来ない。
会社で上司が部下にパワハラし放題で「いびり殺し」ても、それは仕方がないのだ。部下にさせなければば自分がしなければならないことである。上司は自分いできないようなひどいことをさせる。アイヒマンは優秀な事務員であった。
自分の身が大事だ。刑法において「緊急避難」という疑念がある。自分の命が危険になった時にとった行動で他人が死んでも違法性は阻却(罪にはならない)されるのである。
今の世界の仕組みは、常に上に自分が死ぬか相手を殺すか選ばされているのだ。1%の主人に99%の奴隷が扱われている。上の奴隷は良い金を持つがいつでも転落っさせられる。
そう考えれば、何も不思議はない。だから病気になってしまうのだ。避けれない葛藤に向き合った時のあたり前の反応なのだ。人間らしい心があるから、おかしくなるのだ。
そして他人をそんなふうに追い込んでおいて、大金持ちは出来上がる。きれいな姉ちゃんはべらせたり高級外車をずらりと揃えたり、その金は何処から出ているのだ。勝ち組などと持ち上げるメディアはその「おコボレ」で高級を受け取る。
倍返しの出来ない世界
ビジネスの世界でいじめ抜かれながらも、やり返すドラマは気持ちがいい。「倍返し」というやつである。人気だそうだ(あらすじは知っているが僕は見たことがない)。現実では「精神病」になって、別な担当がその席に入る他ない。これだけ人気だということは多くの人が同じような体験をしているのだ。
しかし、現実にはその場所にいる限り上の作ったルールに従わなければならない。一時的に嫌な上司を引き摺り下ろせても、次の上司が代わりに来る。
昔は、転職すれば別な世界に行けた。今は何処も同じだ。会社変わったところで同じ目にあう。運良く良い経営者に当たったところで、会社が潰れるかどうかの瀬戸際になったら首斬られる。自分が斬られなくとも斬られた人の分働くことになるからお先ブラックである。
今や、この世界のどこにも「青山」はない。あるのは洋服売っているお店くらいだ(笑ってください)。経営者の預金通帳のために、安い時給で使い殺されて、ボロボロになって年金もらえる年齢まで働いても生活には足らず老人に働けるパートしながら、動けなくなったら施設に入り僅かばかりの年金は医療関係者の売上になる。
先が見えれば見えるほど生きていたくなくなる。しかいs,いつからこんな世界になっちまったんだ。嬉しくてたまらない連中もいるのだろうが、僕は嬉しく思わない側の一人だ。
こういう世界はテロで滅びる他ない。
僕は20代の頃営業仕事で、上の覚えが悪く酷いお客さんしか持っていなかった。毎月、「目標未達の反省文」を描かせられた。辛い毎日だった。しかし、当時(1985年windowsの10年前だ)、出始めたパソコンを勉強した。転職してソフト会社に入った。
その時は倍返ししたと思ったが、その後独立するが失敗、結局は借金まみれになって新潟にかえった。就職して結婚できた、また倍返しできたと思ったのが会社は倒産である。
ああ、僕の人生のバランスシートはナンボなんだろうか。
注)1960年までイギリスではゲイは病気だった。そして治療を受けないことは犯罪として扱われた。
注)僕の大好きなフランク・キャプラ監督の映画だ。
「スミス都へ行く」が何と言っても最高に好きだ。嫌なことがあったときや、落ち込んだ時はこの映画を見る。キャプラニズムと言われ都合よく物語が終わると言われるが、その内側にある人に対しての洞察は恐ろしいまでに切れ味がある。
注)国家の誕生
魔女狩りは、「権威=教会」にとっての収益源であったのだ。しかし、時代は変わり、人を焼き殺さなくとも奴隷として使うほうが利益の出る階級(工場のオーナー)が生まれて教会の権力を奪い取り始めたのだ。
「軍隊」という「人の徴用」を納得させるための仕組みが「民主主義」であり「共産主義」であった。
そして、「国家と言う概念」により神のものであった「個人の命」は国家のものとなったのである。死ぬことも、病気にかかることも、国家の許しが必要となった。
家庭で死ぬと遺体は検死される。事件性がないかを調べれれるのだ(笑)。
病院で死ねば、検死は必要ない。少し面白い。
ナショナリズムというのはそんなに昔からあるのではない。
注)ワインバーグ博士の処方箋
>>>>>>> コンサルタントの秘密 まえがき iv より<<<<<<<<<<
....だが私はたいていのときは、その非合理性に耐えられる範囲内において、依頼主との直接のやり取りを楽しみにして来た。私がこの業界にとどまるためには、選択の余地は次の二つしかないように思われた。
1、合理的であり続け発狂する。
2、非合理になって気違いと呼ばれる。
長年に渡って私はこのみじめな両極の間を行きつ戻りつして来た。そして私はついに第三の道がある事に思い当たった。それは、
3、非合理性に対して、合理的になること
だった。
この本は影響してくれと言う要請をめぐる、一見非合理的な行動にひそむ合理性に関しての、私の発見を述べたものである。それがコンサルタントの秘密である。この表題から見てこの本はコンサルタントの為の本だと言う感じをもたれる向きも有るかもしれないが、実はこの本はこの非合理な世界の中で混乱し、それについて何かをしたいと思っている全ての人の為の本なのである。.....................
>>>>> 引用ここまで <<<<
注)神様は何も言わなくなって何年にもなる。
「気分はもう戦争」(矢作 俊彦 、大友 克洋 )より引用