プッチーニ『修道女アンジェリカ』② ワーグナーからの影響
19世紀後半から20世紀にかけて活躍した作曲家で、リヒャルト・ワーグナーの音楽と思想からの影響を全く受けていない人を探すのはなかなか困難である。プッチーニも大いに影響された一人。
その影響を「トリスタン和音」に見出してみよう。「トリスタン和音」は言うまでもなくワーグナーの「トリスタンとイゾルデ」の開始に現れる、音楽史を揺るがすほどの影響を与えた和音、並びに進行である。
この和音「減5短7の和音」と呼ばれたり、ポピュラー音楽の世界では「ハーフディミニッシュ」と呼ばれ”ø”という略号で書かれることもある。
根音 短3度音 減5度音 短7度音
で構成されるということを覚えておけばいい。ワーグナーはこの和音と減7和音、属7和音を変幻自在に使い分けている。
『修道女アンジェリカ』中盤、侯爵夫人の登場につけられた音楽はこのようなものだ。
c#mollを感じさせる低弦のピチカートとc mollのホルンによる和音が交互に現れる。半音関係にある調を揺らいでいる感じ。続く小節(譜例3段目)の和音進行が特徴的。拍ごとの和音構成を調べてみよう。
シンボルの意味は
ø = ハーフディミニッシュ(減5短7=トリスタン和音)
o = ディミニッシュ(減7和音)
aug = オーギュメント(増3和音)
である。
3段目1小節目
1拍目 Cm
2拍目 A♭
3拍目 F#o
4拍目 D#ø
3段目2小節目
1拍目 Dø
2拍目 C#ø E♭m
3拍目 Dm/E
4拍目 Eaug
1小節目4拍目から"ø"が3連発するのがお分かりだろうか?トリスタン和音の響きが3回続くのである。ワーグナーっぽいと感じるとしたらこれが理由だ。
もう1箇所あげてみよう。アンジェリカが「私の息子!私の息子!」と半ば狂乱しながら歌う全曲中で最も劇的な場面だ。
上記譜例の2小節目の和音を先ほどと同様に分解してみよう
1拍目 Am
2拍目 F7 Fmaj7
3拍目 Aø Ao
4拍目 G#o E7
3拍目でトリスタン和音と減7和音、そして属7和音と進んでいく。
私はこの部分を聞くとパルジファル3幕最後、ティトゥレルの葬列の場面を思い出す。
1拍目 Em
2拍目 C7(-5) Cø
3拍目 G7 G7(13)
4拍目 F#ø F#o
使用和音と低音の固執進行がパルジファルからの影響を如実に感じるのである。
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他のプッチーニ作品にもこの和音が色々な場面で使われているのにお気づきだろうか?例えば『ボエーム』4幕で屋根裏部屋に瀕死のミミが帰ってくる場面、ここはøとoの連続だ。
『トスカ』のこの場面も。ト書きに「仄めかしを強調して」と書かれたスカルピアの背景の和音はo ø 属7で構成される。
そしてバタフライ。ボンゾの威嚇に対してピンカートンが答える場面。øの連鎖。
まとめ:
「トリスタン和音」のプッチーニによる応用をさまざま見てきたが、この和音が使用されるのは概してドラマに緊張感漂う場面が多いことがわかる。『修道女アンジェリカ』の他の場面では、ここまで内面を抉るような和音はあまり出てこない。公爵夫人との緊張感が高まる場面でこれらの和音を多く使用している。それ以外は非常に清冽で清らかな音楽が多く、結果的に早いテンポのないこの作品に於いて、内的緊張を高めるために効果的にこれらの和音が使用されたのだ。
観劇の際はこういった理論的なことは全て忘れて!!ドラマに没入していただきたい。ハンカチ必須ですぞ!
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