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『フィレンツェの悲劇』音楽解説
ツェムリンスキーの代表的オペラ『フィレンツェの悲劇』は、近年しばしば演奏される機会に恵まれている。演奏時間が約60分の1幕物であるため、他の作品とのダブルビルとして上演されることが多い。新国立劇場ではプッチーニの「ジャンニ・スキッキ」と共に上演された。
「フィレンツェの悲劇」はドイツ語で"Eine florentinische Tragödie"と言う。「悲劇」は英語なら tragedy であるがドイツ語では Tragödie[traɡǿːdiə トラゲーディエ]と発音し「ゲー」のところにアクセントがくる。原作はオスカー・ワイルドの戯曲(英語: A Florentine Tragedy)。マックス・マイヤーフェルトのドイツ語訳を作曲者自身が自由に翻案して台本を編んだ。
オスカー・ワイルドといえばリヒャルト・シュトラウス「サロメ」を思い出すが、ツェムリンスキーの音楽もその語法的にリヒャルト・シュトラウスの路線を継承している。「サロメ」もそうであるように、ワーグナーによって始められた「ライトモティーフ」技法が網の目のように張られ、舞台の状況やテキストを音楽で説明するのだ。
つまり「フィレンツェの悲劇」を楽しむにはライトモティーフを知ることが早道となるだろう。しかしネットでもこの作品のライトモティーフに関する記述はほぼ見つけられないのが現状だ。そこで今回は主だったライトモティーフを紹介していこうと思う。
是非楽譜をご用意頂き(imslp にあるヴォーカルスコアが便利、ツェムリンスキーは1942年没なので版権の心配はない)、参照しながらお読みいただきたい。また新国立劇場より日本語対訳が公開されている(前原拓也訳)。これらの資料とともにご覧いただけるとより深く理解できるだろう。必要に応じて譜例は挙げていく。https://www.nntt.jac.go.jp/opera/upload_files/die_florentinische_tragoedie_taiyaku.pdf
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華麗なるトランペットの響きで始まる。商人シモーネ不在の家で妻ビアンカとフィレンツェの公子の密会の様子が音で描かれる。ト書きには「グイードはビアンカの前にひざまづいている。彼らは互いの手を絡み合わせている」と書いてあるのみだが、その前には情熱的なベットシーンがあったことはこの前奏曲が語っている。ちょうど『ばらの騎士』の前奏曲がオクタヴィアンと伯爵夫人のベットシーンで始まるのと同じように。
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さっそく重要なライトモティーフが提示される。トランペットのファンファーレ、これが「グイードの動機」だ。屹立する男性自身を象徴するような上行音形、オクタヴィアンの動機もそうだったことを思い出そう(下に譜例)。しかしシュトラウスのそれと違うのは3小節目の下降音形までが「グイードの動機」であるということ。この場で殺されてしまう彼の運命の転落をも含む動機とも考えられよう。
一方の優美な「ビアンカの動機」は2段目の上声部(一番上の段は豆譜なのでト音記号で書かれている段のこと)に現れる。ハ長調のシンプルな音形「ドーーシレドーーシ、レーードミレーード」非常に知覚しやすい。
2段目の「ビアンカの動機」の背景でも「グイードの動機」(豆譜参照)が間断なく響いていることもあり、二人が絡み合い愛し合っていることが想像される。
参考までに『ばらの騎士』の開幕も挙げておこう。これはわかりやすい!ツェムリンスキーはこの手法をより耽美的に処理して開幕に持ってきたのだ。
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冒頭譜例2段目3小節は「陶酔の動機」。再び接吻を交わす前奏曲の最後(7/4/4)、グイードが彼女の美しさを讃える場面(67/1/2)、シモーネがいなくなり2人での愛の場面(82/1/1)、オペラの最後シモーネがビアンカにキスをする場面(102/1/2)と、全曲に5回現れる。他の動機と違い出現箇所が限定されいるため印象的だ。愛の場面ではその断片も鳴る。全音音階(es f g a h c#)で構成されており、その響きが記憶に残りやすい。
副次的なモティーフだが重要なものとして、冒頭譜例2小節目の符点音符で下降して開始音に上昇するリズムを挙げておこう。3段目2小節目の豆譜にもこの音形が登場する。このリズムはシモーネ登場の直前にも(8/1/2の豆譜)聞こえてくるし、ビアンカが彼の姿を見つけた時にも明確に(8/1/4)知覚できる。これを何と名づけよう?グイードの興奮であるし、不穏な空気を表すモティーフでもある。このモティーフは短剣での決闘シーンで「死の動機」とともに聞こえてくる(以下の譜例、95/3/3~)。「動揺の動機」とするのはどうだろう?
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シモーネ歌唱開始部、上記「動揺の動機」の直前に鳴らされる音形は明らかに驚いている状況を表す。「吃驚の動機」で良いだろう。53/4/3「死」という言葉を耳にしたシモーネのセリフの前も同様。この動揺と吃驚はこの後もセットで用いられることが多い。
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さて前奏曲4ページに戻ろう。
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上の譜例、1段目3小節(4/1/3)からのメロディーは20/1/1から出てくる音楽。この先のストーリーでシモーネは「ルッカのダマスク織り」と「ベニス製のビロードでできた式典礼服」をグイードに売りつけるために商人の売り口上を披露する。リヒャルト・シュラウス譲りのオーケストレーションが施され、開幕の情熱さと比べると美しさの方が際立つ音楽だ。「売り口上の動機①」とでもしておこう。25/3/2「ベニス製のビロードでできた式典礼服」の方は「売り口上の動機②」だ。ちなみにこうした動機名はわたしが勝手に命名しているので、世間一般で通用しているものではないし、ツェムリンスキーが名付けたものでもない。理解の簡便さのためのラベルを貼っているにすぎないことをご了解いただきたい。
「売り口上の動機」はグイード&ビアンカのベットシーンに関係してくるものではないが、音楽的な展開としてこの先の素材を提示したものと言える。これをシモーネを表す音楽と理解しても良いと思うが、ただ一つ不思議なのは「シモーネの動機」と確実に呼べるものがこの作品には現れないこと。一番のメインキャラクターで全体の約8割近くを歌っている人物なのに、である。
前奏曲に登場するライトモティーフで後々重要なものになるのが「死の動機」である。4/5/4~5の豆譜参照。4度下がってそののちに上行するのが基本パターン、いわゆる「テトラコルド」だ。通常は両端の音程間隔は完全4度をとるが、ここでは「減4度」だ(長3度と見た目は変わらないが)。その音程関係は変容することもある。5/1/1~2では早速音程関係が変わっているのがわかるだろう。
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作品中盤、ビアンカが53/1/3で"Tod"という言葉を発した後から頻出する動機だ。54/1/3でオーケストラに現れ、54/3/1からはこの動機で始まるメロディーがシモーネの歌で展開される。
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グイードビアンカ二人の愛のデュエットの最後 82/3/2から幕ぎれに至るまではこの「死の動機」が全体を支配している。
しかし禍々しい「死」を表すだけでなくこの動機は、美しいビアンカを表現する優美な姿で現れたり(91/4/2)
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最も重要な幕ぎれに感動的に登場したり(彼らの歌唱声部参照)、
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「死」という概念の逆の意味で用いられる動機変容がなされている。このあたりもリヒャルト・シュトラウス『サロメ』と似通っている手法なのだ。(私の「サロメ」記事参照)
「死の動機」は全曲中最低でも100回は現れる最頻出モティーフだ。
続いて「愛の動機」
前奏曲後半は興奮がおさまり穏やかな楽想に変化する。5ページの後半より2度上行して2度下がるモティーフが頻繁に聞こえてくる。6/2/1からはこのモティーフが連鎖しディミュヌエンドしながらLangsam(6/4/1)の音楽に移行する。この6/4/1からのメロディーが「愛の動機」(ドーレードーラーーーー ミーファーミードーーー)、そしてその後に続く音楽が79/2/1からのビアンカの愛の告白の場面の先取りとなる。
2度上がり2度下がる「愛の動機」は
2度下がり2度上がる「動揺の動機」
と逆向きで対立する。7/5/3,4で「愛の動機」が聞かれる最中7/5/4では「動揺の動機」がホルンの異質な音色で対置される。
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以上、前奏曲中に現れるライトモティーフを紹介した。これだけでも作品の理解には充分な知識であるが、さらに副次的な動機を4つ紹介しておこう。
初めてグイードが口を開く箇所にはファンファーレ風の動機が鳴る。グイード自身のフィレンツェ大公の息子としての社会的な立場を表明する。「グイードの動機②」としておこう。オペラ冒頭に聞かれた「グイードの動機」も現れる。混乱を避けるためにこちらは①としておこう。
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これが中盤、35/2/2「高貴なご婦人があなた様を取り巻いておられる」で「グイードの動機①」が出たのち、「夫たちは妻を寝取られてツノをはやし」の部分では「グイードの動機②」が変容した形が聞かれる。これは『コキュの動機』だ。コキュとはフランス語で「妻を寝取られた夫」の意味である。
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その後グイードがシモーネに向かって「ビアンカを欲しいといったらどうするかな?」と挑発的に聞くときにこの動機が再び聞こえる。そして直後に「動揺の動機」、平静を装って「ご冗談を」と言うシモーネの心中は察して余りある。
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その直後、妻に向かって「糸を紡げ」という時に現れる『糸巻の動機』
下記譜例の3拍目に頻繁に現れる4度下降のモティーフだ。そして40/3/3からシモーネによる「紡ぎ歌」、その4,5小節目(40/4/1,2)のオーケストラの動機は後の音楽的展開の重要な要素となる。
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「糸巻の動機」はこれにとどまらず、新たな話の展開の際にもその存在を誇示する。44/1/1以降のシモーネの歌詞の裏でも継続的に鳴っているのがわかるだろう。続く48/1/1からも同様。
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以上「フィレンツェの悲劇」におけるライトモティーフを紹介した。他にも副次的なものはあるがここまで押さえておけば作品理解には充分資するものと思う。
次の機会があれば内容と動機の関連性をもっと深掘りしていきたい。