Die Frau ohne Schatten
1992年のバイエルン国立歌劇場来日公演「影のない女」、NHKホールでの公演だと舞台機構の影響でカットが増えると聞いていたので、全貌を知りたいと思った私は愛知県芸術劇場まで車を飛ばして行ったのだった。当時藝大指揮科の1年生、この劇場の柿落とし公演でもあり、素晴らしい劇場を目の当たりにしてすごくときめいたのを覚えている。演出は市川猿之助、指揮はヴォルフガング・ザヴァリッシュ。ミスターストップと言われた猿之助による歌舞伎を取り入れた演出は斬新かつ美しいものだった。まだオペラにそれほど馴染みのなかった私だが、直感的に「これは観ねばならぬ」と思い、ハードカバーのフルスコアを買い音源を聞き公演に臨んだのだ。これが私の「影のない女」原体験である。
時は流れ2010年5月、新国立劇場でこの作品が取り上げられた。国内では上記バイエルンの公演以来18年ぶりの舞台上演。大変な難曲であったが、自分がこの作品に関われる喜びが大きかった。指揮のエーリッヒ・ヴェヒターは少ない動きで最良の音を引き出す職人、オーケストラの稽古の仕方など実に堂に入ったもので、その後の私に激しく影響を与えた。公演後の打ち上げでは新国立劇場の音楽スタッフのレヴェルの高さに驚嘆したと語ってくれて、嬉しかったのをよく覚えている。
このプロダクションで様々に体験したことは今でも鮮やかに思い出せる。3幕に出てくるグラスハーモニカは実際の楽器を用意したわけではなく、ヴァイブラフォンをコントラバスの弓で擦る方法で演奏した。プロンプターだった私は、あまり器用でなかった皇帝役の歌手を徹底的にフォローしたので「ドイツに連れて帰りたい」とまで言われたし、バラクの難所で私の合図の良し悪しで成果に違いがでるのを学んだり、、様々な経験をした。
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そして本日2024年10月、二期会の「コンヴィチュニーの影のない女」、事前情報通り曲は寸断され、順序を入れ替えられ、歌う歌手も変えられ、、作品を知る私からすると我慢ならないことが多々あった。2幕の音楽で終幕など本来ならあり得ないことだし、私だけでなく猛烈な欲求不満が残った観客が多数居ただろうことは容易に想像できる。
しかし別の側面、エンターテインメントとして見てみると、なかなか楽しかったのは事実。アレホの指揮する東京交響楽団と二期会の歌手陣の奮闘がその根底にあったのは特筆すべきことだ。2011年同じコンヴィチュニーの二期会「サロメ」はあまりにも音楽的充足度が低い上演で、学芸会か!っと思ったほどである(この記事の最後に昔の日記をそのまんま転載しています)。彼の演出を満足に客に提供するには、圧倒的な音楽の力が絶対に必要なのである。その意味で本日の公演はエンターテインメントと呼ぶに相応しい公演だった。初めてこの作品を観た人に「面白かった」という感想が出てくるのは容易に想像できる。
一つ世間の誤解を解いておきたいが、コンヴィチュニーは楽譜が読めないからこんな勝手なことをやっているわけではないのだ。むしろ楽譜を読みこんだ上でこれをやっていることは明らか。これは舞台を見てみないとわからないことだ。事前の文字情報「だけ」で公演を観ずに批判だけするのは危険。本当に譜面の読めない演出家なんて他に一杯いるんだよ。
音楽家の私でさえ「影のない女」が完璧な作品とは思っていない。冗長な部分は少なからずあり、通常カットが施されることからもそれは一般に認識されていることだ。新国立劇場の子供オペラでリングの短縮版をやったり、春祭の子供オペラでワーグナー作品を短縮して上演したり、ってこともあるわけで、そのような感覚で私は今日「コンヴィチュニーの影のない女」を観た。
なんだかコンヴィチュニーを擁護しているような物書きだが、私は決して擁護などしていない。様々な理屈があるにせよ今日のように作品を改竄してはならない。恣意的に演出家の都合で削って繋ぎ日本語のセリフまで加えるなど、作品への冒涜以外何ものでもないことはハッキリと言っておく。演出家のマスターベーションに付き合うのはごめんだ。東京交響楽団の素晴らしい演奏がありながら「本公演」で作品をズタズタにするのは、子供オペラとは同列に比較できるものではない。
作品を初めて観た方は今日を契機に「ほんとの『影のない女』はどんなのか」と次の興味に繋がっていくことを祈っている。今晩はザバリッシュの3幕の演奏を聴こーっと!
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↓ 以下2011年「サロメ」のmixi日記の転載
二期会「サロメ」
2011年02月26日02:15
運動会のような演技をこなした歌手の皆さんの努力には心から敬意を表したい。
しかしながら、コンヴィチュニー演出に特段見るべきものはなかった。
この演出家、音楽を第一に考えてると言いながら、シュトラウスの音楽についての理解は非常に薄いように思う。サロメダンスなどただ自分のいいように「利用」しているに過ぎない。最後のセリフを観客に扮した役者が観客席から言うなど、知らない客には効果満点かもしれないが、このように作品の改竄を行うのは許し難いことである。「ティレジアスの乳房」のように観客に扮した歌手が「みなさん子供を作りましょう」と歌いだすというような作曲者によって仕込まれたアイデアならともかく。ヘロデの宝石づくしの歌の最後、ユダヤ人の「オーオーオー」の抗議の叫びが、ヘロディアスの絶頂の喘ぎに変えられている(ユダヤ人はすでに死んでいる(笑))のも作品の悪質な利用にすぎない。
まあそんなことより、
一番今日の公演でつらかったのは「音楽の希薄さ」だ。
オケは都響、すばらしい出来だった。
では希薄さを生んでいたのは何か。
それは歌手。
指揮者は超快速テンポで私には世界最速に思われた。そのテンポのせいもあると思うが、それを差し引いても声楽的にこのドラマを牽引していく歌手にほとんど出会えなかった。
この動きでプロンプターもなしでよくやっていたと思う。しかしやっぱり「よくやっていた」という同情的な感想になってしまうのは音楽的な粗が見えすぎるからだ。たぶん私のように細部を細かく聞く人は稀であろうが、しかしそういう印象は少なくないお客さんの印象として残っているのは確実だ。
インパクトのある演出に気をとられて音楽があまり気にならない、としたらオペラにとって、「サロメ」にとって、シュトラウスにとってあまりにも悲しいことである。初演時の衝撃を現代的に表現したのであろうが、こんな演出にしなくても音楽は今聞いても十分刺激的である。その音楽を十全にこなしていなかったら、いくら舞台上で刺激的なことをやっていようと、効果はでないのだ。
ではどうだったらよかったのか?
簡単である。音楽的には問題のないような完成度を備えており、さらにそれを強調するかのように舞台上の演出がそれを助ける、そうなれば演出家の効果は2倍3倍にも拡大されるだろう。つまり声、音楽で聞かせられなければいけないのだ。
歌手の問題はいくつもあった。発音、テンポ感、フレーズの作り方などの基礎的な問題、さらに根本的な劇場を鳴らすための声の問題もある。配役により大方は決まってしまうのが辛いところだが、今日のメンバーだったらもっと改良の余地があったかもしれない。
私の持論で「オペラに端役なし」というのがある。特にこのサロメについては開幕すぐに登場する歌手の出来が重要である。ナラボート、小姓、2人の兵士、カパドキア人のことである。これらの歌手がひきしめてくれないとサロメ登場までに気が滅入ってしまうのだ。今日はというと、その滅入るパターンの典型であった…ハア
コンヴィチュニーとの共同作業、二期会としては大きな成果をあげたと思うし、その意欲は讃えたい。しかしオペラはまず音楽ありきである。今の時代、本当に日本のオペラを引っ張っていけるような実力を備えた歌手が、実のところ、とても少ないように思う。それなりに歌える人はゴマンといるが、「それなり」の歌手の集まりでは魅力が少ない。それを補う(隠す?)ためにコンヴィチュニーという付加価値を持ってきていると言われても仕方がないかもしれない。これからの日本オペラ界はもっと歌手そのものの魅力を高めていかねばなるまい。その一翼を私も担っていかねばいけないなあ、と帰りの上野駅に向かう道すがら考えていたのであった。
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