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Tristan und Isolde 徒然⑪ ある1つの単語について 〜開幕の日に〜

本日は2024年3月14日、新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」幕開きの日です。この3週間あまり、公演の稽古に明け暮れ、この作品のことだけを考え過ごしてきた幸せな時間でした。その成果を公演という形でお客様にご覧いただけるのは望外の喜びです。

「トリスタンとイゾルデ」第1幕は船上で話が進みます。第3幕はイゾルデの船を待ち望むトリスタンのモノローグが主です。ということで「船」という単語がたくさん登場することになるわけです。第1幕では4回、第3幕では、何と17回も登場します。ここでは1幕での登場箇所を見てみます。

ドイツ語で「船」は "Schiff"(シフ)といいます。発音記号で書くと [ʃɪf] となります。"Sch" の子音をしっかり準備し、母音の "i" は短めに発音し、最後に "ff" の「フ」という語尾の子音をはっきりと聞かせます。

最初に聞こえるのは、前奏曲直後、舞台裏から聞こえてくる若い水夫の声。

若い水夫の声(高いところから、マストの上から聞こえてくるように)「西へと目はさまよい 東へと船は滑りゆく。さわやかに風は吹く ふるさとに向かって。 アイルランドの娘、おまえはどこに?」

オーケストラを伴わない、全くのアカペラでの演奏。これだけ長く歌った末に、最後のB♭はオーケストラの Ges-dur のコードにはまっていなければいけないのです。さぞかし歌手は緊張することでしょうね。その歌い出し4小節目に "Schiff" が初登場。フォルテではっきりと歌われるのでクリアーに聞こえます。ただし母音 "i" がはっきり聞こえる割には語尾の "ff" は飛びにくいので意識的に歌わないといけないのです。舞台裏ですから尚更。

ブランゲーネの第1声にも登場(以下譜例3段目)。

ブランゲーネ「青い筋が東に見えてきました。おだやかに、速く船は進んでいます。穏やかな航海で、夕方までにはきっと陸地に着きます。」

余談ですが、実はこの開幕のブランゲーネのテキスト、ワーグナーが自筆譜に書き込んだのはこのテキストじゃないんです。

Peters版
"Blaue Streifen steigen im Osten auf"「青い筋が東に見えてきました。」
自筆譜をもとにした新全集版
"Blaue Streifen stiegen im Westen auf"「青い筋が西に見えました。」

西と東!全く方向が違います。13年前の新国立劇場上演の際、大野和士さんとモネ劇場のコーチ、トメクさんと侃侃諤諤の議論になったのでした!まあこの問題だけで1つのレポートが書けてしまうので、触れるのはまたの機会に譲りましょう。実は今回藤村実穂子さん、稽古で 1度だけ"Blaue Streifen stiegen im Westen auf" を試されていました。あ、昨年12月の「わ」の会では"Blaue Streifen stiegen im Westen auf" でやりました。

イゾルデも怒りと共に "Schiff"という言葉を発します。

イゾルデ「獲物を海に見せてやれ、私が海にさし出す獲物を!海がこの強情な船を打ち砕いて、 その粉々の残骸をむさぼり喰えばいい!」 

2段目に現れる "Schiff" は2分音符で書かれています。"i"の母音は短母音ですからこれを長く歌うと「シーフ」になってしまい、"schief" (傾いた)という別の単語に聞こえてしまいます。

例えは悪いですが
「おじさん」⇨「おじいさん」
「おばさん」⇨「おばあさん」
「顧問」⇨「肛門」
等、日本語でも伸ばす伸ばさないは意味上とっても大切です。

実際の演奏の際には「シフ」と短母音で歌う意識で、全体が長くなったと捉えます。実際"i"は少し長めになりますが、"ff" が明瞭に聞こえれば違う単語に聞こえることはありません。

でも、1幕3場では、このような譜面になります。符点2分音符です。

イゾルデ「タントリスのまま知らぬふりで放免してやったあの男が、トリスタンとして あつかましくも戻って来たのよ。堂々たる船に乗り、甲板の高いところから、、」

3段目の "Schiff" は長いです。これはどうしましょう?短母音であることを主眼にすると歌えなくなってしまいます。実は3幕のトリスタンのパートにもっと困る箇所があります。

トリスタン「あこがれ!死につつもあこがれるのであって、あこがれのせいで死ぬんじゃないんだ!」

2段目の最後に "nicht" という言葉がありますが、これも短母音です。しかしトリスタンの一番の見せ場として有名な6拍伸ばしを短母音だからと短くしてしまっては意味がありません。こういう箇所は "i" の母音をおもいっきり伸ばします。狂乱とも言えるトリスタンの精神状況の中で発せられる言葉ですから。
そのように考えると1幕3場のイゾルデも(1幕1場も)怒りの中で発せられる "Schiff" ですから "i" 母音が長く書かれているのも表現として歌ってほしいというワーグナーのメッセージと捉え、"i" は長くても良い、と私は考えます。いずれにしろ語尾の "ff" はクリアに処理しないといけません。

3幕ではクルヴェナール、トリスタン、牧童も "Schiff" という言葉を発します。歌手たちがどのようにこのテキストを扱っているか、こういった微細なところを見ていただくのも一興かと思います。

ぜひ、新国立劇場「トリスタンとイゾルデ」を堪能してくださいね。


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