『サザンカが泣いて私は』私論

以下は平成二十三年、B級演劇王国ボンク☆ランドのブログに掲載するため執筆しましたが、諸事情で断念したものです。

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たまには積極的に、検索に引っ掛かるような記事を書かねばと思い、このタイミングで『サザンカが泣いて私は』のことを書こうかと……。

基本的に僕はミステリ、その中でも“本格”と呼べるものしか読まない。ミステリばかり読んでてはいけない、なんて思春期に言われまくった結果、すっかり拗らせ偏ってしまったのである。

そんな僕が19の頃、齋藤松夫の『サザンカ~』を読んだのは、江戸川乱歩が『幻影城』かなにかで、探偵小説の味がある中間小説として、『高瀬舟』などと挙げていたからだ。

しかし、僕は最初読んだとき、どこがどう探偵小説的なのかさっぱり分からなかったし、一般的に言われてるような、恋愛の話だとも到底思えなかった。

歌人である(私)が、師匠の名で作品を発表せざるを得ない現状を嘆きつつ、師匠を恨むことが出来ない様子を綴り……、なんだかオチらしいオチもつかずに終わっちゃったなぁ……と、思ったら、どうも読み方によっては、師匠がとっくに死んでいて、家屋の描写は実は墓地を表現している、と言う叙述トリックらしい。何十年も前の作品とは言え、ここでネタバレらしきことを書くのは、どうも僕にはその読み方が正解(ミステリだとしたらあるはずだ)だとは思えないからだ。『沢山のお菓子と花』以外に具体的な描写が無いとか、(私)が墓参りに行くシーンとの対比がそれを表している……、らしいけれど、まあ、乱歩もクリスティの某作と並べて評してるし、そうなのかな?

で、死んだ師匠をなお慕う様子が恋心である、と言う理屈は、まぁなんとなくわかったけれど、むしろ諦念を狂気のレベルまで持っていくことで、自分の創作欲に繋げようとする様が恐ろしくも美しい……、という、あくまで芸術を主軸にした作品じゃないか?と、首を傾げたものだ。

で、偶々大学の映画を題材にした講義で、1960年伝宏一郎が監督した『サザンカ~』を観て漸く気が付いたんだけど、(私)って女性だったんですね。で、女優の真加部康子を売り出す映画として作られた所為か、吾妻宗太郎演じる師匠も普通に最後まで生きているし、まあ、恋愛要素のある映画とされている。僕は叙述トリックがあると言う頭で原作を読んだんで、よくある性別が特定出来ない書き方とかしてるに違いない!と、決めてかかり、その辺曖昧にしてるうちに、逆に男性だと完全に決め込んで読んでいた。栗本薫に填まり直してた時期だったので、そっちの方にバイアスがかかっていたのかもしれない。

ただ映画の方も、あれは恋愛物では無いのではないか、と思っている。授業では伝監督らしい、被写体をマテリアルとしか見ていない点がどうこうと、演出論について教えられたが、脚本も伝が手掛けていること、伝が後に『夏の虚像』『海底』などで、徹底的にドライな作品を作ったことから考えても、ただの恋愛映画(ただの恋愛、ってなんだよと言う気もするが)を作るとも思えない。

原作では序盤で、冬の季語とされている山茶花が、寧ろ冬の寒さに折れてしまう様子を、師匠の虚栄に照らし合わせているが、映画ではこれが終盤に語られる。そして(私)が持ってきた茶菓子が、原作では(私)が自身の先祖の墓に備えていた羊羮である。これの意味するところは、映画が終わった後に(私)は師匠を殺害したのでは?映画版の『サザンカ~』は、壮大な(私)による復讐劇なのではないか?しかもそれは、(私)の父が『歌や芝居で、誰か死ぬわけでもあるまいし』と言う、その言葉への復讐なのでは?

そこまで気づいて、僕は自分の説にーーーーーーー

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ここまで書いて放っておいたのは、原作の中で師匠の死を決定付ける一文があることに気づいてしまったことと、齋藤が作中、性別どころか年齢、人間かどうかさえ曖昧な書き方を意識的にしていたことは純文学畑では有名だったこと、映画版の伝監督が狙っていたことにいても、すでに語り尽くされたロジックだと知ったからです。こう言ったことがあるから、なるほど親の言う通り、ミステリばかり読んでいてはいけなかったのかもしれません。八年前これを書いたのは、例のハリウッド版が公開されていたからですが……。どういう思考回路をしたら、ロマンチックコメディに出来るのか……。


しかし実際、乱歩や栗本薫など、ミステリに関する名詞だけ実在のもので、あとはでっち上げな辺り、僕の引き出しの無さにはウンザリだな。即ち、すべてフィクションである。

多少センシティブなことを書いてるかもしれない。道義に反することが有れば修正、あるいは削除します。

(高瀬萌さんのリクエストにお応えしました)




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