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学び3.0への道(デジファシ構想10)

コロナ禍の混乱の中、YAMI大学がスタートしました。

この試みは、作家の田口ランディさん、プロセスワークセンターの佐野浩子さん、デジタルメディア研究所の橘川幸夫さんと私の4人でZoom会議をしていたとき、橘川さんの次のような発言から始まりました。(記憶をもとにしているので、正確ではないかも。)

「コロナ禍は、世界全体が同時に体験している。氷河期のようなものだ。氷河期に恐竜が絶滅して、弱い猿が協力して次の時代の中心になったように、大量生産を担ってきた大企業が絶滅して、個人が協力して参加型社会を作るだろう。戦後の闇市から美空ひばりが出てきたように、コロナ禍のカオスの中から、次の時代を担う何かが出てくるはずだ。」

そのために必要なのは、戦後の闇市のような、誰も管理する者がいない何でもありの大学。

ということで誕生したのが、YAMI大学です。

管理する事務局が存在せず、個人と個人の直接の信頼関係をベースに横展開していく「アナキズムの大学」

私自身は、よろめき歩き学部を設立しました。意識と存在、男性性と女性性など、対極のものの間をよろめき歩きながら統合していくことを目指す学部です。

その一方で、橘川さんの深呼吸学部で学んでいます。世界を自分の中に吸い込んで、言葉として結晶化して世界に吐き出すのが橘川さんの深呼吸する言葉。意識と存在の間を振り子のように行き来してきた橘川さんの人生から学んでいます。

学び1.0(意識)と学び2.0(存在)

クオリティを重視する学びには、クオリティの基準があり、高さと低さが存在します。

基準に沿って改善のポイントが見いだされ、高みを目指して改善していきます。基準に沿って肯定されたり、否定されたりします。

フレームと基準があるので、何がよいのかを決めることができ、議論によって高みを目指すことができます。

このような学びを、さとのば大学の信岡さんと私は、学び1.0と呼んでいます。

基準が固定的で、社会全体で画一的に統一されていたりすると、それが、あたかも絶対的な基準であるかのような倒錯が起こります。

外部に設定された正解を内面化すると、それに満たしていない自分を否定するようになり、自己肯定感が下がって苦しくなります。

人間のある方向の可能性の追求のために作った「クオリティを高めるための基準」が、別の方向の可能性を抑圧するという本末転倒が起こります。

そんなときには、本来は何でもありだという前提に戻ってカオスを展開し、あらゆる可能性に開かれていることを思い出す必要があります。

各自が自分の存在から湧き上がる自分らしさを表現し、相互に触発されあうような学びを、信岡さんと私は、学び2.0と呼んでいます。

そこでは、否定せずにお互いの想いを聴きあう対話的なコミュニケーションが重視されます。

フレームを固定して、内部を最適化していく学び1.0と、フレームを解体して存在から湧き上がる衝動を表現する学び2.0。

現在の教育システムの重心が、ガチガチの学び1.0であるため、そこに存在する抑圧に対する反発として学び2.0へと向かう傾向があります。

一方で、学び1.0における競争に勝ち抜こうとしている人から見ると、学び2.0は、甘えであり、無駄な多様性であり、非効率なものに見えたりします。

そのため、学び1.0と学び2.0とは、相互に否定し合い、反発する傾向があります。

学び1.0と学び2.0とを時間軸で統合する学び3.0

意識や論理を活用して高みを目指していく学び1.0と、存在や身体性、直感などを活用して多様な可能性を探求する学び2.0とは、本来対立するものではなく、相互に補完するものだと思います。

学び2.0で可能性を横に広げて、そこで見いだされたものの質を高めるために、いったんフレームを作って最適化して高みを目指す学び1.0をやるのです。

横に広げることと、高みを目指すことを交互にやることで、世界のあらゆる可能性の追求として学びを捉えることができます。

このように、学び2.0(存在を大切にして横に広げる)と、学び1.0(意識や論理を大切にして高みを目指す)の間をよろめき歩きながら統合していくのが、私の考える学び3.0です。

どのようによろめき歩くのかのプロトタイプを、こちらの記事で示しました。

学び3.0へ向かうためには、学び1.0と2.0との間の対立と向き合い、自分が否定している要素を癒して統合する必要があります。

しかし、これは、言うは易く行うは難しです。

学び3.0を実践するようになると、学び1.0の実践者からも、学び2.0の実践者からも攻撃されるようになります。

学び3.0は、学び1.0の実践者が否定している2.0の要素を内包すると同時に、学び2.0の実践者が否定している1.0の要素も内包しているからです。

学び30のつらさ

生まれつき持っていた全体性の一部を否定して社会的正しさを獲得してきた人にとっては、統合した学び3.0は、自分よりも未熟な状態に見えることもあります。

人は、自分が認知の範囲外にあるものを、認知の範囲内の既知のものに変換して理解する傾向があるからです。

しかし、他者に違和感を発生させながら、その場にとどまり続けることで、少しずつ理解者が増えてきます。

炎の前に座り続けることで、少しずつ、少しずつ、世界の統合のプロセスが進行していくのです。

それは、画一的で本末転倒してしまった学び1.0によって生じた抑圧の痛みを癒すことであり、らせんを一周回って、各自の可能性の追求のために学び1.0を再定義していくことでもあります。

そのためには、学び2.0を経由して存在と繋がりなおすことが必要なのです。

炎の前に座り続けている学び3.0の実践者のみなさんが、YAMI大学に集結しつつあります。

新しい時代の芽が、すでに生え始めています。

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