自分を消失してカテゴリにはまる生き方を超えて:生きるじぶん大学
工業化社会の特徴は、標準化である。
社会に標準化されたカテゴリが設定され、個人は、どのカテゴリに入るかを選択する。
有利なカテゴリに入るための競争があり、競争に勝ち抜き、有利なカテゴリに入ったことを示す肩書きがステータスになる。
それは、カテゴリ=私 という倒錯的な自己認知が起こる社会装置である。
「生きる私」というものを消失させ、外部に設定されたカテゴリに忠実に一体化したことで「既製品の自分」を手に入れるという倒錯。
工業化社会から情報化社会へのシフトを契機に、この倒錯を終わらせたい。
情報化社会における生き方を、「生きる私」を中心に据えたものとして構想したい。
情報化によって新しいカテゴリが生まれて、そこにはまっていくのであれば、それは、工業化社会の延長に過ぎない。
いくらカテゴリが細分化されて選択の幅が増えたとしても、誰かが作ったカテゴリの中から選択している限り、工業化社会の延長に過ぎない。
選択の自由が増えたことに目くらましをされず、創造的自由を行使しなければ「生きる私」は、育たない。
「生きる私」が育つということは、自分の喜怒哀楽、違和感、などを手がかりにして、自分の身体性と結びついた表現を獲得していくということだと思う。
一人一人が、「生きる私」としてのナラティブを立ち上げていくということだ。
「生きる私」が育つ環境とは、喜怒哀楽や違和感などが発生する関わり合いがある環境であり、表現したことを聴いてくれる誰かがいる環境である。
お互いに耳を傾け合い、語り合うことで「生きる私」が出現し、「生きる私」の集合体としての参加型社会が出現するのである。
「生きる私」を消失させて、工業化社会のカテゴリに人を流し込んでいく教育システムは、時代の流れの中で終わっていくだろう。
入れ替わるように「生きる私」が育つ教育が、現在のコミュニケーション環境の中で出現するだろう。
現在、頭に浮かんでいる問いは、次のようなものである。
「生きる私」が育つ環境における教師の役割とは何か?
「生きる私」が育つ環境における同級生の役割とは何か?
「生きる私」が育つ環境におけるインフラとは何か?
「生きる私」が育つ環境におけるオンラインが果たす本質的な役割は何か?
これらを、工業化社会の常識をアンインストールした頭で、実験しながら言語化していきたい。
これまでも実践しながら取り組んできたテーマだが、もう一段、クリアにできそうな予感がする。
それをクリアにするためのマイ研究プロジェクトの名前は、「オンラインじぶん大学」よりも、「生きるじぶん大学」のほうがしっくりくるかな?
名前については、もう少し考えよう。
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