機械のアルゴリズムをマネる人間と、人間のライブをマネる機械の共進化
先日、慶応大学名誉教授の奥出直人さんと、AIのべりすとの開発者のStaさんとの対談があった。私は、司会として参加した。
ふたりの対談は、「知の格闘技」ともいうべきものになった。レフリー役の私は、一瞬でも気を抜いたら流れからおいていかれると思い、全身の神経を集中させて、必死の思いで司会していた。
この時の対談の動画は、近日中に公開予定。
対談に触発されて人間とAIとの関係を考え始めた結果、この記事のタイトルにした言葉が湧いてきた。
機械のアルゴリズムをマネる人間と、人間のライブをマネる機械の共進化
10年ほど前から、機械論的世界観をどのように捉え、どのように「その先」を目指したらよいのかを模索してきたが、ようやく光が差してきてうれしい。
機械のアリゴリズムをマネる人間
人力で肉体労働をしていた時代に、蒸気機関によって人力や馬力をはるかに超える力を発揮する機械が登場し、人間の肉体労働が機械に置き換わっていった。
産業革命後、様々な機械が生産されてきた。自動車や飛行機といった乗り物、テレビや冷蔵庫といった家電、私たちの生活は、様々な機械に取り囲まれるようになった。
機械は、多様な部品から構成されており、それらが決められた通りに連動して複雑な機能を実現する。機械の故障の原因は、ほとんどの場合は部品の破損である。修理とは、破損した部品を正常な部品と交換することである。
機械論的組織とは、機械をモデルとしたアルゴリズム的に作動する組織である。様々な役割を付与された人間が連動して複雑な機能を実現する。そこでは、一人ひとりの人間は部品と見なされる。経営のトップが計画を練り、組織は正確にそれを実行する。組織内の個人は、より希少価値のある部品を担えるように競争し、希少価値に応じた報酬を得る。生命としての流動性を抑え込む対価としてお金をもらう。学校教育システムは、子どもを機械論的組織の部品として働けるように訓練し、受験競争は、子どもを能力や適性に応じて振り分けていく役割を果たす。
部品が精巧に組み合わされた機械の威力を体験した近代の人間は、機械を集団活動のお手本にして組織や社会システムを作ってきたのだ。近代的自我とは、機械論的組織の部品として機能する単位である。
人間のライブをマネる機械
最初は、人間の肉体労働を代替していた機械は、次に、頭脳労働も代替し始めた。コンピューターの登場である。
人間の頭脳労働の中には、アルゴリズム的に処理できるルーチンワークと、その都度、柔軟に考えなくてはならないものとがある。前者は、アルゴリズム的なコンピュータープログラムによって、次々に代替されてきた。
後者をコンピューターで代替する試みも始まった。人工知能(AI)の登場である。認知科学の知見を取り込み、人間が行っている情報処理をコンピューター上で再現しようとしたが、うまくいかなかった。
人間のアルゴリズム的でない側面を、コンピューターというアルゴリズム処理装置で再現しようとする試みであるのだから、うまくいかないのは、ある意味、必然だ。
複雑系で生き物らしさを追求していた私も、同じところにはまっていた。ここは、行き止まりなのだ。
機械に起こったブレークスルー
今回の奥出×Sta対談で分かったのは、私が行き止まりだと思っていた場所に起こったブレークスルーの内容だ。
人工知能研究が明らかにしたのは、「学習とは、ネットワークの繋がり方の調整である」ということであり、様々なネットワーク構造と調整方法が研究されてきた。しかし、それは、あくまでも、頭の中にあるネットワーク=脳の繋がり方の調整だと捉えられてきたのだ。
「脳が世界をどのように認知しているのか?」という問いを立てて研究する認識論では、世界をどの範囲(フレーム)で切り取って処理するのかを定められないフレーム問題が発生する。
(ここから先は、私自身が、これから学ぶためのガイドとして流れを書いておく。詳しく学んだら、内容を書き直すかもしれない)
人工知能批判で知られるドレイファスが、ハイデガーの『存在と時間』の注釈書である『世界内存在』を執筆した。『存在と時間』については、1年ほど前から毎週読書会をやっている。ハイデガーは、世界を主観ー客観に分けるのではなく、「世界内存在」として捉え、現存在は、世界の配慮のもとで道具的存在者と出会う。道具と道具とが繋がり合っている文脈的な状況を世界のほうから開示され、それと出会うというところに、どうやら、フレーム問題を突破するカギが見つかったらしい。
ドレイファスをヒントにして、学習が脳の内部ネットワークで起こるものではなく、文脈が柔軟に変化する状況とのインタラクションの中で起こるものだと捉え直したのが、レイヴとウェンガーによる『状況に埋め込まれた学習』らしい。
学習パラダイムを、脳の中で起こる「認知主義」から、状況とのインタラクションによって起こる「状況論」へと転換したことで、人工知能研究は袋小路を抜け出して「新しい目」を獲得し、次の展開へと向かったのだそうだ。
「新しい目」を獲得したことで、技術的にもブレークスルーが起こり、2017年に「Transformer」と呼ばれる手法が発見され、それまでの人工知能の成果を劇的に超える成果が生まれるようになった。
こちらから画像をお借りしました。
これらのブレークスルーの結果、文脈に依存した理解をすることが可能になり、AIが格段に人間らしくなった。
DeepL翻訳は自然な日本語に翻訳し、AI議事録とれる君は高い精度で音声を認識してテキスト化してくれる。さらに、AIのべりすとは、新しい小説を次々に生成してくるのだ。
決められた作業を順序通りに処理するアルゴリズム的な機械ではなく、人間のように揺れ動く文脈を読み取りながら意味を生成し、人間の持つ、ライブ感のあるやりとりをマネるようになった機械が、現在のAIだ。
AIのライブ感をマネる人間
人間とは、経験を因果的に捉えて教訓化し、アルゴリズム的に自己の行動ルールを作り出す存在である一方で、偶発的に見える縁起的な出会いから創発的に変化していくライブ的な存在でもある。
人間は、自分のアルゴリズム的な側面を外部化してアルゴリズム的な機械を作り、それによってアルゴリズム的な可能性を拡張し、そこから学んだことを自分たちの組織運営に活用してきたのだ。
一方で、自分のライブ的な側面も外部化して「状況に埋め込まれた学習」を行うライブ的なAIを作った。そのAIから「ライブ」とはどのようなものなのかを学び、理解を深めつつある。
アルゴリズム的な機械から学び、機械論的世界観を構築し、世界をアルゴリズム化していったのが近代だが、その方法論が行き詰った現在、ライブ的なAIが登場し、新たな世界観の構築へと私たちを誘っている。
AI研究に起こったブレークスルーから本質を抽出し、新しい社会構築の方法論、新しい教育の方法論を探るところに、近代の先の社会を模索する突破口があるのではないか。
人間は道具を作り、道具を使うことによって人間が進化する。
進化した人間が新たな道具を作り、新たな道具を使うことによって人間がさらに進化する。
人間と道具とのインタラクションによって、人間と道具とは共進化してきたのだろう。そして、現在とは、共進化の大きなジャンプに供えてしゃがんでいるタイミングなのかもしれない。
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