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社会を内包する「全体的個人」の新しい生き方とは?

コロナ状況の中で、新しい社会の胎動が大きくなっていることを実感している。

「贈与と返礼」によって維持されいた農村共同体では、かつては、お金は大きな意味を持たなかっただろう。共同体の掟に従っていれば、生きていくことができたのだから。

工業化社会とは、農村共同体の呪縛を断ち切って都会に出てきて労働者になった人たちによって作られた社会だ。食物の生産から切り離された労働者は、生きていくためにお金が必要になった。共同体の掟から自由になったことと引き換えに、お金によって支配されることになったのだ。

都会において、農村共同体の代わりになったのが企業組織だ。村の掟から抜け出した人たちは、終身雇用制の組織の掟に縛られることになった。掟に従っていれば定年まで安定した生活ができるが、掟に背けば生きていけないぞという世界だ。組織という共同体の中で生きている個人である「組織人」が登場した。

社会状況が変わり、大企業であっても終身雇用制を維持できなくなると、「個人は、自分の責任で生きるべき」という風潮が生まれてきた。個人の問題意識によって個人化するのではなく、外的要因によって個人化を強いられる状況が生まれてきたのだ。頼るべき組織の弱体化によって自己責任が大きくなった個人は、それぞれがリスクを分散しつつ、個人利益を最大化するようになった。このような個人を「新自由主義の個人」と呼ぶ。

30代の私は、物理の予備校講師として3つの予備校を掛け持ちしつつ、小さな会社を経営して予備校の講義をネット配信していた。仕事の内容は「物理の講義」であり、それを複数展開してリスクを分散しつつ、少ない労力で最大の利益を上げることを考えていた。この時代の私は、リスク分散、効率化、個人利益の最大化を目指していた「新自由主義の個人」だったと思う。

311やコロナによって社会状況が不安定化すると、生きる前提が揺らいでくる。人によってきっかけはさまざまだろうが、前提を問い直しはじめるとカオスに突入し、枠組みが広がっていく。

個人がよりよく生きるには、どんな組織であればよいのだろうか?

組織がよりよく維持されるためには、どんな社会であればよいのだろうか?

個人と組織と社会とがフラクタル構造であると感じられるようになり、自分の生き方、組織の在り方、社会の在り方とが重なり合うようになっていく。このような個人を「全体的個人」と呼ぶことにする。

「全体的個人」にとっては、社会の問題は、自分の問題である。必然的に社会活動に関わるようになる。関わり始めると、課題解決と資本主義のルールとがぶつかり、矛盾を内部に抱え込むようになる。

自分と社会とを分離し、矛盾を排除して効率化する「新自由主義の個人」とは異なり、自分と社会とが重なり合っている「全体的個人」は、社会の矛盾は自分の矛盾であり分離することはできない。そこで、矛盾を排除するのではなく、矛盾を価値創造の源泉にして問いを創り出す。問いを手がかりにアンテナを張って、関連する様々な物事を自分の中に取り込み試行錯誤する。私は、その行為に、「じぶん内社会実験」と名付けている。

「じぶん内社会実験」を繰り返しながら、様々な仮説を生み出し、教育や、組織運営や、社会デザインに対して多様なプロジェクトを立ち上げ、実験的な取り組みを始める。

コロナ状況におけるオンライン化は、並行して多様なプロジェクトに関わることを可能にしたため、「全体的個人」の活動範囲が大きく広がっている。

「新自由主義の個人」の複業とは異なり、「全体的個人」の複業は、未来社会を出現させる試みである。そのため、多様な試みから経験学習によって学ぶことが優先される。実験し、経験から学び、学んだことを伝える、というサイクルを回しながら、矛盾を中心に置いて止揚することを目指すのだ。

このような、経験学習を中心に据えたライフスタイルに「オンラインじぶん大学」という名前を付けた。

経験学習を中心に据えると、多様なプロジェクトに関わるようになることが自然である。その結果、組織やコミュニティに所属するという感覚は薄くなり、自分の内部に様々な要素を取り込んでいくという感覚へとシフトする。

それは、社会システムのカテゴリにはまっていく適応的な生き方から、社会の様々な活動を、自分の生き方に「タグ付け」し、社会を内包した自分を創造する生き方へのシフトである。

熊谷晋一朗さんの自立の定義「自立は、依存先を増やすことだ」を適用すると、「全体的個人」は、多様な組織やコミュニティに関わることで、特定の組織やコミュニティへ依存せずに自立することが可能になる。

また、それらの組織やコミュニティに「多層的に所属」し、その中で、新たな「贈与と返礼」の循環を作ることで、農村共同体とは異なる次元で、お金の支配から抜け出す可能性が生まれてくる。

「自立は、依存先を増やすことだ」を貨幣にも適用し、「貨幣からの自立は、依存先の貨幣を増やすことだ」と読み替えると、法定通貨だけでなく、様々なコミュニティごとに仮想通貨を使用することで、お金から自立しやすくなるだろう。

工業化社会を支えるために生まれたヒエラルキー型の組織から「組織人」が生まれたが、組織が持たなくなるにつれて「新自由主義的な個人」が登場した。しかし、そこでは終わらずに「全体的個人」がどんどん増えている。特に、10代、20代の若者で、最初から「全体的個人」を指向する人に頻繁に出会う。

生産の現場で生活しながら、オンラインで様々なプロジェクトに関わって「オンラインじぶん大学」で学びながら、生き方の創造=社会の創造をしている若者たちが、地域での物々交換とオンラインでの物々交換とを新たな形で結びつける「ハイブリッド物々交換」を出現させると、組織からも、お金からも自立した「全体的個人」が活躍する社会構造へと転換していくのではないだろうか。

「全体的個人」として生きようとすると、現在の社会システムや資本主義経済との不一致が大きくなる。そこで生じる違和感が、新しい社会システムや経済システムを生み出す原動力になるだろう。

組織の変容サイクル

違和感を感じた人たちのナラティブ(語り/物語)が重なり合って大きくなることで、システムが変容するのだ。

「全体的個人」のナラティブによって、どんな学び、組織、社会が出現するのだろうか?すでにあちこちで発芽が始まっているはずだ。

全体的個人

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