"繋がり"の暴力性、そして
ある人に「明日の夜空いてるか?」と聞かれて、空いてると答える。とある懇親会のようなイベントに誘われた。
久方ぶりにその人から連絡があったので、話したいと思いそのイベントへ出向くことにした。
その日、お店に行ってみるとすでに会は賑やかな様相を呈していた。誘ってくれたその人と目が合い、そこへ行くとすでにそこには入る隙間もないほどテーブルを囲む人たちが座っており、結局早々にその人が僕のことを紹介だけして他のテーブルに行ってしまった。
その人と話せることを期待して来たのに、結局じっくり話すことができずに、知らない人との話題は方向も分からず進んでいく。誰なんだろう。同じ日本語なのに、言葉のつかみどころがなく浮かんでは消えてゆく。
どうやら、自分が座ったのはコンサル1年目で〜とか学生団体をやってて〜という勢いのある人々のテーブルだったらしい。頼んでないのに自己紹介の初手から片手で名刺を渡してくる人。絶対興味がないくせに、みんな何やってるのか話したから、とりあえず聞いてみるかというノリで「で、何やってるんすか?」と聞いてくる人。なんて雑なんだろう。
俺たちイケてるよね、同じだよね、という高慢な連帯感に寒気を感じた。
どうしてこの飲み会に来たんだろうと、当初の目的が霞むほど心底居心地の悪い時間を過ごした。カツセマサヒコの小説『明け方の若者たち』の序章に描かれる「勝ち組飲み」というネーミングからして共感性羞恥を覚える飲み会そのものの光景だった。
現実は「私と飲んだ方が、楽しいかもよ笑?」と誘われ、飲み会を抜け出す展開にはならないのだが。
毒付いてしまった。でも、自分にもそんな振る舞いをしていた時代はある。だからこそ、人をおざなりにするような行動を見て居心地が悪いのだ。
呼んでくれた人の視点では、新しい人と知り合って楽しんでほしかったのかもしれない。
"繋げられる"あるいは"繋ぐ"ということを考える。
知らない人同士が集まって、繋がって、世界がひとつになることが良いと信じて疑わなかったのはいつの時代だろう。
そもそも、世界はひとつになれるのだろうか。ひとつってなんだろう。
集まって、繋がって。ひとつになったように見えるその外側にはいくつもの知らない景色があったというのに。
なぜひとつになろうとしたのか。なぜ一緒になりたがったのか。
集まることで生まれる新たなものにかけていたのかもしれない。あるいは同じになりたかったのかもしれない。新たなものが生まれてほしいと期待することも、同化させたいという想いも暴力性と紙一重ではないだろうか。あまりに想像力に欠けていた。
繋がってほしい、出会ってほしいと願っていたけれど、世界がひとつになってしまったら、そこで失敗してしまったら代償も大きい。
ひとつにならず、ばらばらのまま生きていく。ときどき偶然重なり合って、じっくり話を聞く。そしてまたどこかへ歩いてゆく。
人間そのくらいでいいのではないか。
このことを考えるとき、星野源の『ばらばら』を思い出す。
ひとつになれないことの悲哀を歌っているのだと思っていたけど、歌詞をよく読むと、ばらばらのままであることをそのままで捉えていることに気づかされる。
居場所が変わって、それまで信奉していたことの景色がいくつも変化した。当たり前は全然当たり前の感覚ではなかった。
ばらばらのまま、そっとして、お互いをゆるやかに認識することで、それぞれへの距離感を掴むことができるようになった。
正直、世間は狭くなるよりも、広いままの方が息をしやすかった。
広大な空間がひろがる世間で、ほんの一瞬目の合った人とじっくり話を掘り下げていきたい。
そのなかで湧き出る話に心躍らせながら。