本のある暮らしーその生業としての推敲
その1
何故あんなにも小学校の給食が食べられなかったのか、答えは明白である。自分に合わなかったのだ。給食の時間が終わり掃除の時間が始まっても、一人食べさせられていた。低学年の時は涙をこらえながら、時には流しながら食べていたが中学年になると知恵がつき、隙をみてランドセルにパンを隠し持ち帰るようになった。土曜日にもなると、やけにランドセルが重いのは5日間分のパンが眠っているからだ。月曜日の分は鈍器の如く硬くなり、夏場は若干カビが生えている。合わないものは合わない。子どもながらに感じた気持ちは今もまだしっかりいきている。相性は年齢や心持ちで変わるものだと分かるのは大人になってからである。読書も全く同じだ。世間でミリオンセラーになっていようが、名著と言われていようが合わない本を読む必要はない。選書する際の基準にはなるだろうけれど、その入り口しかないならば無限にある読書の扉に自分で施錠してしまうのと同じだ。扉は開けないと閉められないが、本も読まないと合うのか合わないのかはわからないではないか、その通りだと言いたいがそうではない。初めのころは合わない読者体験が続くかも知れない。ページ途中で閉じてしまう本も多くあるだろう。でも何度か繰り返していく内、高確率で合う読書を重ねられるようになる。ぽつぽつと読了する本が出てくるようになる。読書が好きになれない一つの理由に、思い込みがある。「お金を出して買った本、全部読まなきゃ損した気分……」これがいけない。そう思いながら読まれる本も不憫である。その点で読書は他人と付き合うことに似ている部分がある。合わないからと他人を否定してはいけないのと同様に、おもしろくないと感じた本も否定してはいけない。「今の私と気の合う人は誰ですか?」と問えば、おそらくぎょっとされる。よって「オススメの本は?」ではなく「最近面白かった本は?」こう訊くのが正しい。あなたの大切な時間やお金を費やす読書を人に委ねてはいけない。幼い頃、学友が掃除するほこりの中で泣きながらでも食べきれなかったパンがいつしか大好物になったように、本や読書とあまり接していない人が少しずつ本のある生活を送られるようになることを願いながら、また本のある暮らしをさらに味わい深いものにしていただけるようお届けしていく。
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