校閲者における「疑問の出し方」のセンスについて。
【注:この記事は、アメブロへ2023年2月25日に投稿した記事を、筆者本人が内容を変えずに移植したものです。】
皆様こんばんは。
今回も、性懲りもなく校閲の話を。以下、同業者でないとほぼ興味のない話題かと思いますすみません。
私が「校閲者にとって最も重要なトピックの一つ」だと常日頃から考えている、「疑問の出し方」(ゲラへの疑問の書き方)についてのセンス、流儀についての話です。
まず、単刀直入に言って、「他の校閲者や編集者がパッと見てすぐに意味が判別できないタイプの疑問」は出さない方が良い、もしくはそういった疑問の書き方はすべきでない、と私は考えています。
(このように私が考える理由は、おそらく私自身、校閲者としての修業過程において、付かせていただいた諸先輩方が皆さん割とこの考えだったから、かもしれません。というかそういうタイプの人の方がやっぱり信頼される、というのを見てきたというか。)
よく現場で見かける事例として(注・今の現場がそうだと言ってるわけではないです)、ものすごく簡単にまとめてしまうと次のような事例です。
A説とB説があるような話題において、著者はA説を採用して、それに従って書いているのだが、B説で書いてはどうか? と校閲者が提案している、みたいなことです。
このように書くと、いかに失礼な(というか、面倒な)ことをしているかが分かると思うのですが、ゲラでうにゃうにゃと色々な論理を並べ立てて、結果的に校閲者がB説に誘導しようとしているかのような事例が結構あったりするのです。これは歴史学とか医学など、一つのトピックに対して諸説出てきてしまいがちな分野においてありがちな話です。そして学際的な話を日常言語に落とし込んだときに出てくる、本来許容されるべき日本語の不完全さについて突っついたりとか。あとは厳格な日本語文法、論理的文章の枠に嵌めようとしたりするケースもよくありますね。
言い方を換えると、資料①と資料②で内容が微妙に異なっている場合、なおかつその両方について信頼に足るソースである場合に、校閲者が資料①だけを見てしまい、資料②をベースに書かれた文章に無駄なイチャモンをつけてしまっていないか? という話なのです。
また、編集から「この疑問はどういう意味ですか?」と後から問い合わせが来るなどというのは、私は最悪のケースだと考えています。ゲラの疑問だけで伝わっていないわけですから。そしてそのような疑問は往々にして、結果的に無駄になることが多いし、直しが入ったところでこちらの意図が正確に伝わっておらず、ともすれば更に意味のとりにくい文章に修正されてしまうことすらあります。非常に意味のない作業に多くの人の時間が奪われていることになるのです。
こうした「意味のない疑問」は、校閲者として慣れてくると一読すればパッとわかるもので、私がまとめ役の場合、大抵は消しゴムで消してから編集者に渡すのですが、ここでまた別のトピックというか問題があり。
「確かにママでも良いんだけど直した方が本当はベター、でも疑問を出すほどではないかなぁ。。。」という事例が結構現場では頻出するのです。その時どうするか。
ここで考えなければならないのが、どうしてもですね、著者の方の特徴とか、編集者のタイプ等についてなのです。これは人間同士なのだから、仕方のないこと。つまり、ゲラの先にいる相手が誰なのかによって、ハッキリ言って疑問の出し方を変えることが多い、ということです。
ガンガン疑問を出していい場合はガンガン出しますし、諸説あるような話題について「メモ書き」のような形で残しておいた方が良い場合もあったり、はたまた、てにをは含めて些細なことは出さないに越したことはない、というパターンもあり。
ですが、気を遣いすぎてもそれはそれで無駄骨というか、編集者も著者もそこまで気を遣われることを求めていない(というか伝わってない)、という場合もあったりするのですが、我々校閲者は基本的に「ゲラ上にすべてを盛り込まなければいけない」仕事をしているわけですから、しっちゃかめっちゃか気づいたことをゲラに書けば書くほどいいなんてことはほぼ有り得なくて、やはり取捨選択が必要なのです。
たまに、調べたことを「私これだけ調べたんですよ!」みたいにゲラ上に開陳してしまう校閲者がいますが、日々同時並行の仕事で疲れている編集者や作家さんがそれを見てどう思うか? ということを想像した方が良い。校閲者の自己満足に付き合っている余裕は誰にもないのです。結句、疑問の出し方はなるべく明快に、シンプルであった方が良い。むしろ、もっと大事なこと、つまり「拾わなければならないところをきっちり拾う」ことに注力しなければならない。
私が新人の頃、先輩校閲者でもともと書き手を目指していた方がいて、その方が「作家は脱稿したらそこでほぼ終わりだと思ってる人も多い。だから校正で込み入った疑問が入ってきても、もうお手上げなんだよね」とおっしゃっていたのをたまに思い出しますが、私自身も、苦労して書いた作品や記事にしっちゃかめっちゃかに鉛筆を入れられると、まあ頑張って読みはしますが「面倒だな」と思うかなと。直さなくていいならわざわざ直さない、というか。
ただ、ここでまた難しいのは、「込み入った疑問を出した方が喜ばれる」ケースが、まれに存在する、というところで、ここがこの仕事の奥深いところというか、結局「相手次第」なのです。
でも基本的には、常人が一読して意味のわからない疑問や、疑問なのかメモ書きなのかもわからないような記述については、「落書き」とまでは言いませんがなるべく避けたほうが良いものだと私は考えています。
一度書いたとしても、相手に渡す前に何度も考え直して、そして最終的に消してから渡す、ということもかなり多いです。
これは編集者が著者に出す疑問も同様で、私も以前、著者が編集者の出した疑問に著者校正上でブチギレているのを何回も目撃したことがあります。無論、校閲疑問についてブチギレ、というケースもたまに耳にしますが…。作品は著者のものですから、本当にそこを履き違えてはいけません。いやごくまれに社内原稿とかでは「直す前提」で入稿されているものもあり、それはそれで本当に大変なのですけどもね…。(泣)
とにかく、私が言いたいのは、「ようわからんことをゲラ上につらつら書いてはいけない」ということです。
これはベテランも新人も関係なく、特にフリーランスの方で他の校閲者の疑問を見る機会が少ない方は注意が必要かもしれません。たまに、校閲者同士の集まりや講座などでチューニングすることをお勧めします。この仕事はともすれば本当に孤独なので、間違った方向に知らず知らずのうちに進んでしまっている事態もあり得るし、実際にそういうケースを私も残念ながら何度も目にしています。教育の機会に恵まれる必要がある仕事なのに、その体制が不十分だったりするんですよね。
長くなりましたが、また人気のない校閲記事を書いてしまいました(汗)ではまた!