校閲業における「重調べ」についての試論。

【注:この記事は、アメブロへ2024年7月17日に投稿した記事を、筆者本人が内容を変えずに移植したものです。】

こんにちは。


今日は、仕事に関して、敢えてパンドラの箱を開けてみようと思います。

校閲三要素(と私が勝手に呼称している)、「合わせ」「素読み」「調べ物」のうち、「調べ物」についてです。


以下、いち校閲者というよりは、進行管理的な立場からの考え方であることをご了承ください。

また、あくまで試論ですので過剰反応禁物にてお願い致します。


校閲という仕事は、実際にやってみるとよく分かるのですが「調べ物」にものすごく時間がかかります。

しかし、本来はもっと別のところに時間、比重をかけるべきではないか? と思わなくもない場面が結構あります。

ここで言う調べ物とは、「岸田首相の年齢」みたいな、ネット検索すれば5秒でわかるようなものではありません。たとえば「引用照合」とか、古い文献や込み入った史実の確認とか、論文の内容確認など、そういったものを念頭に置いています。媒体によっても調べ物にかける時間の比重はさまざまですが、いまはノンフィクション系の単行本とか、選書などの校閲を念頭に置いての話です。こういった調べ物のことを今回は、分かりやすいように「重調べ」(おもしらべ)と呼ぶことにします。


もちろん私は、そのような「重調べ」をないがしろにするつもりは毛頭ありません。出版物の品質維持のため、刊行までに必ずやらなければならないことであるのは事実です。

しかし、その作業を本質的に「誰が」そして「どう」やるのか、ということを、もう少し突き詰めて考えてもよいのではないか、とよく思います。つまり、校閲者が重調べの作業(と責任)を一律に負うことは出版というビジネスにおいて最適解なのか? という素朴な疑問があるのです。


私がいつも懸念しているのは、重調べの負担によって、本来必ず気付かねばならない単純な誤植とか、単純な事実誤認、人名や地名の間違い、体裁の不備、叙述における根本的な瑕疵・矛盾などの確認に時間を割く余裕がなくなってしまっては本末転倒ではないか? ということなのです(そして、そういった事例は現場ではもはや「あるある」化しています)。校閲者でなければできないこととは何か? という話です。

もっと言うと、重調べによって校閲者が長時間、単一のゲラに縛られてしまうことにより出版事業そのものに負のエネルギーがかかってしまっていることはないのか? と検証すべき局面にきているのではないか……これは、単行本や新書の現場にいた時にもよく感じたことです。

ちなみに、いま私が所属している週刊誌校閲では、色々事情が違うので(たとえば、記者やデスクの方がファクトチェックにかなりコミットしてくれることが多い。また、厳しめな時間の制約がある)そこまで負のエネルギーは顕在化していない気がします。


以下、先ほど書いたようにノンフィクション系の単行本や、選書、もしくは重めの内容の新書あたりを想定してみましょう。

選書で350ページ、初校だけでどう頑張っても3週間はかかりますよ、というものがイメージしやすいでしょうか。

まず、最初から順番に中身を読んで調べていくわけですが、当然「引用」が多々あります。文献については著者や編集者があらかじめ用意してくださっている場合もありますが、時間の制約上、初校ゲラが出た時点では何も用意されていないケースのほうが遥かに多いです。そこで、校閲者は編集者と相談しつつ、資料を集めてもらって、足りないところは自分で文献集めをしたりもするのですが、この分担の比重や「姿勢」も正直なところ編集者次第だったりしますし、編集者に資料集めをお願いしていると納期にとうてい間に合わない、ということが多いです(無論、編集者ばかりに非があるわけではありません)。

では、文献集めを「どう」行うかですが、簡単に言えば図書館に行くわけです。個人的に、会社がある新宿区の図書館には本当にお世話になっていますし、広尾の都立図書館に行ったりもします。もっと直接的なのは国会図書館です。私家本などを除けば書籍、雑誌の引用をほぼ100%揃えることができますよね。

しかし、校閲者が引用照合のために図書館に行くと、それはそれはものすごい日数を消費するのです。これはやってみるとよく分かりますが、350ページもあれば本当に大変です。引用確認「だけ」でも1週間まるまるかかる場合もあるでしょう。しかも、著者直しで新たな照合箇所が出てきたりとか、バージョンの違いとか、刊行までに、単に「引用を確認すれば終わり」では済まない問題が実はたくさんあります(ここが結構大事なポイント)。サマリー、大意の確認はどこまでやるか、というトピックもあります。場合によっては、外部校正者の方に図書館に通っていただくケースもあります。

しかし、国会図書館に行く暇などないというスケジュールの場合もありますよね。果たして、そのとき重調べはどうするのでしょうか? ひとつには「重調べがきちんと100%終わるまで刊行しない」という考え方もあると思います。が、それは正論、理想論でしかありません。出版業は慈善事業ではなく、あくまでビジネスですから、校閲担当者の都合で刊行時期を延期することが常に叶うというはずもありません。場合によっては柔軟に対応してくださるものもありますが、それが望ましいことかというのは議論の余地があります。

そして、「延々と一冊の本の重調べに取り掛かること」と「採算」についてのバランスはどう取るのでしょうか? そして、(出版社側の人間としては言いにくいことですがあえて書くと)外部校正者の方に重調べをゆだねる場合、その対価は正当に払われているのでしょうか?


調べ物をめぐる問題について、とあるベテラン校閲者の方にお話をうかがう機会が数ヶ月前にあったのですが、その方はこう仰っていました。


「ファクトチェックは、みんなでやるものです。」


この言葉は、今でも私の心にグサッと刺さっています。


雑誌はともかく、書籍になると編集者も数百ページの選書とかNFのファクトチェックの詳細にまで立ち入っている時間的余裕がなく、重調べが基本的に校閲者の手にまるっと委ねられてしまいがちです。しかし、校閲者が孤独に1から100まで重調べをトレースするのではなく、著者、編集者、校閲者の三方でうまく分担するほうが理にかなっていると思えるケースが現場では実はたくさんあると思うのです。

特に、著者の方は「目の前に引用や参考文献がある状態で執筆している」わけですし、そもそもその道の専門家でいらっしゃることが多いわけですから、言い方が雑ですが「著者に任せてしまう」方法も一つですし、実質的にその状態で世に出ている本もごまんとあるはずです。良い悪いは別として。

なまじ国会図書館という「答え」があるからこそ、難しいところで。「校閲は引用照合や重調べをやりません」というのも絶対に間違っている。でも「校閲がすべての重調べを担わなければならない」とは私はどうしても思えないし、進行(渉外窓口)を延べ8年、経験した立場から言うと「メンバーが他のことに時間を使えるなら、どんなにありがたいか」と思うのです。

これは、編集者側から見ても溜飲の下がる面があるのではないかと思います。「なんで校閲にこんな時間がかかるのだ」とお思いの編集者の方、たくさんいるはずです。合わせや素読みにかかる時間はどの校閲者も大差ありません(「実力」に差はあるかもしれませんが)。時間がかかる、そして人によって時間のかかり方が違う(=諦めるポイントが違う)のが重調べなのです。

ここで余談を。自分の担当した本ではないのですが、編集者の方が「ここまでやってもらわなくても良かったのに」と言っているのを進行係時代、聞いたことがあり心に小さな棘としていまだに刺さっています。この言葉のバックグラウンドをよく想像してみてください。つまりこれって校閲と編集のミスマッチということですよね? その仕事の意味とはなんだったのでしょうか?


まとめると。

重調べを当事者の中でどう差配していくか。

これを本気で考えないと、いつか書籍校閲の限界が来るのではないかと思います。


なかなか難しい話題なのですが、敢えて文字にしてみました。しかも、今私が問題意識を持っているのはかなりの頻度の少ないケースにおける話です。が、色々な媒体で、大なり小なり当てはまることでもある気がします。

これは、「どのくらい未確認のまま、ゲラ離れしていいのか?」というトピックでもあります。「ここから先は、著者の方に著者校正の際、確認していただければ充分だろう」ということと、「こちらが必ず確認しなければならないこと」の線引きの話なんです。これは「放棄」ではなく、「信頼関係」「チームワーク」の話です。

「ゲラ離れ」が良い人、あまり離れられない人、両方いるんですよね。これもどっちが良い悪い、ではないんですが。どこに時間と力を割くのかという優先順位の話でもあります。

(ここで追記しますが、「著者の方に確認いただく」というのは、「こちらは確認しません」という意味ではありません。当たり前ですが。基本的な事実確認や素読み、直しの確認等にとどめ、「重調べ」についてはこちらでは確認できない場合がありますよ、という意味です。弊社の場合、未確認の箇所にはその旨、必ず明記しております)


もう一度繰り返しておきますが、私は「重調べをおろそかにしてもかまわない」と言っているのではありません。絶対に気付かないといけないことをスルーしてしまうほどには、校閲者は重調べにリソースを割くべきではないということなのです。そういえば、インターネット普及以前の時代、調べ物は校閲者の職掌ではなかったとはよく聞く話ですよね。


何の話だ、と思う方も多いはずですが、結論の出ないこの話、もっと多くの校閲者が考えてもいい点ではないかと考えています。


【追記】

この問題における、今後の改善点について書くのを忘れていました。

一つ思いつく方法は、「引用を集める担当」の外部校正者一人、初校で追加配置するということです。

これをやることにより、編集側の資料集めの手間も省くことができます。

実際にそれに近い運用で進行した本もありました。

しかし、都合よくその期間に図書館に詰めてくださる方が見つかるかどうか、という問題と、予算の問題があります。校閲者を一人しかつけない版元の場合、現実的にもう一人つけてくださるのだろうか、という疑問はあります。一体どうやって確認しているのだろうか? と気になることは多いです…。

重調べをきっちりこなすことがいかに大変か、そして世の校閲者が孤独な苦労をしているか、また、校閲者にそれを求めるのであれば、その対価は充分に用意されるべきである。

このあたりのことが、少しでも多くの人に伝われば幸いです。


【追記2】
「詳細は、著者の方にお任せする」という方法も考えられますし、著者によっては「内容の間違いの責任はすべて私にあります」とまえがき等で触れてくださっていることもありますよね(なんとカッコいい一言でしょうか! と、この文言を見つけるたび感動します)。
とはいえ、目の前に「これは本当かな…?」と思うような文章があれば、スルーできないのが校閲ですし、スルーしてはいけない場面というのも多々あるわけです。というか、スルーばかりしていたら何のために校閲しているのかわかりません。
調べ物、事実確認の深度、バランスというのは校閲者にとって永遠の課題なのです。


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前にも書きましたが、8月末、オンラインのトークイベントに登壇します。今回の重調べの話が出るかわかりませんが、楽しい話をしますので是非、というか絶対聞いてください。1650円です。安すぎです。見逃し視聴可能です。↓↓↓



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