第19回 教育相談の実際
建前
指導のねらい
生徒に、現在の自分の姿や自分が捉えている問題についてフィードバックし、どのようにすれば問題が解決できようになるか考察させるためにも教育相談は重要である。生徒自身の内に持つ力によって自己変容させていくための手段とすべく、学教教育相談について理解を深める。
指導内容
・教育相談の意義
・教育相談の進め方
・教育相談の校内体制
・他機関との連携
本音
Goくん
本校には、SCが2名とSSWが勤務している。生徒をサポートする体制が他の学校と比べ、充実していると言える。講義の中で、これまでの経験から具体的な教育相談の進め方やSCとの連携について聞くことができた。具体的な手法の1つであるブリーフセラピーに興味をもった。先日の研修では、「傾聴」が教育相談の基本であると学んだが、この手法は短期的な視点で生徒本人に将来について考えさせることができる。進路相談で非常に有効だと感じた。
教育相談は、専門家や担任だけが行うことではない。普段の廊下での会話も生徒との信頼関係を築く上で非常に重要である。本校の「みんなが SA」であることを意識し、小さなことにも気づける教員を目指したい。
Sinちゃん
本校にはSCが2名、SSWが1名配置されている。高等学校のSCは臨床心理士の資格を持っており、小中学校のSCには臨床心理士の資格を持っていない方もいるそうだ。SSWはどのような仕事をしているかよく分かっていなかったが、生徒の家庭を含む問題に直接関わるスキルをもっている方であるとのことだった。
カウンセリングを 3 つに分けると、「開発的なもの」「予防的なもの」「問題解決的なもの」がある。SST活動を取り入れ、開発的なカウンセリングを取り入れているのは、本校の大きな特色である。また、学校生活アンケートや年度初めの生徒情報共有Mは予防的なカウンセリングである。ブリーフセラピーは短期的に解決に導く方法で、将来どうしたいかに焦点をあてて話を聞くカウンセリングの方法である。
「人間は成長する」ことを忘れずに対応することが肝要で、その生徒がどうしたいのかを傾聴し、ラポート関係を構築しなければならない。「みんなが SA」というように、チームで課題に取り組んでいくことが必要である。他機関との連携もしながら、個々に応じた教育相談に取り組んでいきたい。
私から
E先生からカウンセリングの目的や手法等について、実のある講話をいただいたと思います。彼女は教育相談に関して深い素養を持っていますし、当然ながら学校カウンセリングのスペシャリストでもあります。また、クラス経営を初めとする教育相談の実践者としてもハイレベルなプレイヤーです。何かあったら真っ先に相談すべき先輩であると認識してください。
さて、ここからは私の主観を述べます。
私は、教育者はカウンセラーになるべきではないと考えています。カウンセリングに関する研修等にも比較的多く参加してきましたが、その目的のひとつが、カウンセリングを教育者の立場でクリティカルに評価するためでした。その視点で論じれば、生徒にカウンセラーとして接した時点で教育はできなくなる(または教育から離れていく)のではないか、という考えを持っています。
誤解なきよう。私もカウンセリングの手法を活用しています。また、尊敬すべきカウンセラーを友人として何人か知っています。彼らの柔らかい凄みも数多く見てきました。だからこそ私の役目は、カウンセラーと効果的に連携して、子供達を教育していくことなのだと自覚するようになったのです。
ちなみに本校では過去に、カウンセラーに対して「教育的指導」をお願いしていらぬ負荷をかけ、失敗と言える状態に陥ったことがありました。
「餅は餅屋」。私がカウンセラーになれないように、彼らを徒に教育者にしてはならない。またはなるべきではない。となると、マネージャーは両者の有機的協働を実現すること、プレイヤーは彼らとの効果的連携を図って生徒支援を実践することが、学校における教員とカウンセラーの理想的モデルパターンなのではないでしょうか。
別の誤解をさせてしまわぬよう、もうひとつ展開しますね。
カウンセリングの研修等には積極的に参加することを望みます。カウンセリングの技法を手に入れること、またはその技法を学問的に理解することには大きな意味がありますから。
ここから先は、完全に個人の見解を晒します。
「他者の話を聞く」というスキルは、本来スキルと呼ぶべきものなのだろうか。例えばこれは、私が初任の頃に抱いていた感覚です。身も蓋もない言い方をしてしまえば、それを「持っている人」と「持っていない人」に分類してしまえる。「持っている人」はわざわざそれを学ぶことに違和感を覚えるだろうし、「持っていない人」はそもそもできないことに気付きにくく、特にこの職業に就けた人はそれについて疑問に思わないことも多いのかもしれない。そういうことを考え続けてきました。
私の場合、カウンセリングの基本技法である「受容」や「傾聴」、「共感的理解」という言葉を初めて聞いたとき、なぜこれが技法用語として表現されるのだろうと疑問に感じました。そして、漠然とでしたが自分が「持っている」側にいるのだろうと仮定し、しかし自分がそのグループでもどのレベルにいるのか疑問に思ったことが、それに関わる研修に参加してみるきっかけでした。しかし、その結果は思いの外、実のあるものになったのです。
長くなったので、または偉そうなスタンスの話になっていくので、その内容の詳細はいずれの酒席で機会があれば触れることにしますが、重要なのは、学んだカウンセリングの技法をそのまま用いるのではなく、みずからの教育活動に昇華させ、または融合させ、または変換させて、目の前にいる高校生をよりよく導くための教育の手法とすることなのだと考えています。
くれぐれも技法の実践が目的とならぬよう、具体には「座る位置」や「繰り返し」も選択肢の一つと捉え、その都度よく相手を観察して本来の目的である教育活動に近づけられる手法を実践できるような教育者になってほしいと願います。とどのつまり「人を見る目」こそが、他者を支援する役目を担う教育者とカウンセラーに共通する必須のスキルなのではないか。いつか、それについても考えを深める機会をつくりましょうね。
私個人の見解を真に受ける必要はありませんので、参考程度に聞いてくれてかまいません。ちなみに言えば近年、上述したのと近い話をE先生としたことがあって、私のカウンセリングの捉えに関して再考すべき部分があるのだろうと考えるきっかけをもらいました。また時を同じくして、恩師に紹介された黒沢幸子さんの研修会に参加し、私の考えてきた教育目的の手段に近いカウンセリングのアプローチがあることも知りました。
私のカウンセリングに対する考え方は、現在進行形で、よく言えば進化更新させている段階であることも付記しておきます。