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野村克也監督の死去を受け、2月11日に書いた過去投稿です。
2020-02-11に書いたものです。
テーマ:ブログ
今朝、また野球界をずっと支えてきた偉人が旅立ちました。
野村克也さん死去、84歳 名捕手、名将、名解説
野村克也監督。
もちろん、僕は選手の頃を知りませんし、監督でいえばヤクルトの時はほとんど赤ちゃん、阪神の時は弱小、
楽天でもチームの土台を作りはしたものの阪神と同じように結果が出るのは後の星野政権でした。
もちろん星野監督も素晴らしい監督だと思いますが、当時の阪神・楽天は間違いなく野村監督の土台の上に
優勝があったと思います。
僕自身の見てきた中ではおそらく数年しか監督というポストにはいらっしゃらなかったと思います。
でも、監督という形容詞以外考えられないし、誰もがそう呼んでいたと思います。
球界での存在感・影響力はそのポストや年齢には関係なく、書籍はバカ売れし、コメントやコラムは
すべてニュースになり、発するコメントひとつひとつに含蓄と”愛”があふれていました。
野球のこと、選手のことが本当に大好きだったんだと思います。
月見草。
野村監督が自身を表現した言葉です。
自分は主役じゃない。だから頭を使って野球をやるんだ。それが野村監督の考えで、口癖のようにいろんな媒体でおっしゃってました。
元々はテスト生での入団で、そこから60年も野球界の第一線で輝き続けたのだから、十分すぎる主役です。
監督になっても才能溢れる、だけではなく一見すると地味だったり他球団ではうまくいかなかった選手を積極的に起用し、
彼らを復活させていくその様は、野村再生工場と呼ばれました。
きっと、それだけうまくいかない選手のもどかしさや葛藤が理解できるからそういった指導をされてきたのだと思います。
野村監督の愛弟子はたくさんいらっしゃいますが、やはり古田敦也選手と宮本慎也選手が非常に印象深いです。
ヤクルトの監督時代、野村監督はキャンプで毎日のように2時間を超えるミーティングを行ったそうです。
最初は野球の話ではなく、人間力・社会人としての心構え・マナーといった野球選手である前にいち社会人であれ。
という教えだったそうです。古臭いといわれるかもしれませんが、個性豊かなプロの集団では、規範が乱れることも
しばしばあり、そのせいで能力を発揮できないチームも数多くあります。
宮本選手が野村監督から言われたという言葉で、僕の中できっと一生忘れないだろうな。というある
言葉があります。
それは、
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