つかめプライド
監督は仕草に配慮している
富野由悠季監督のご自宅に取材にお伺いした際、上井草駅前に建てられているガンダム像のところで同行メンバーと待ち合わせしていました。その時、監督と対談することになっていた彫刻家の佐藤正和重孝さんがこうおっしゃっていました。
この話を聞いて、私が思い出したのが、先日まで横浜山下ふ頭に建てられていた「動くガンダム」のことでした。
2020年12月から24年3月まで、のべ175万人以上の観客を集めたGUNDAM FACOTRY YOKOHAMAの「動くガンダム」。こちらが完成した頃にYouTubeで公開された制作過程のドキュメンタリー映像で、実物を見た監督が「V
サインはできますか?」と聞いていたのです(あの名言「おっぱい感がない」も同じドキュメンタリーのシリーズで出てきましたね)。
現実にはVサインをするためには指を横に開くための別モーターを取り付けなければならず、重量面で難しい(指別にグーとパーはできる)ことが分かり、監督は非常に悔しそうな顔をされていました。
18メートルあるロボットの手をグーとパーだけでなく、Vサインはできないかと問うたり、ブロンズ像の指の形にも細かく注文を付ける監督。そこから監督が、特に「仕草」に対して配慮していることがうかがえます。では作品の中のどこにそれが見られ、そして演出上にどういう影響を及ぼしているのでしょうか。
伸ばされた手は何を掴もうとしているのか
分かりやすいところでは、OPやEDの伸ばした腕です。『キングゲイナー』『ターンAガンダム』のOP、そして『Gのレコンギスタ』のEDと、近年の監督作品のOPやEDでは肘を伸ばし、大きく突き出された腕が描かれているカットがよく見られます。
何かを求めるように、欲するように伸ばされた腕。特に『Gレコ』では歌詞の「つかめプライド、つかめサクセス」のフレーズに呼応するかのように指を軽く曲げ、つかみ取るような形になっています(キャラだけでなくモビルスーツも)。
もちろん、『Gレコ』ではラインダンス、『キングゲイナー』ではモンキーダンスと他にも目を引くところはたくさんあるのですが(笑)。
OPとEDという、毎週視聴者が観る映像で、こういった印象的な仕草や動作を入れてくる。Amazon Prime VideoなどではOPやEDをスキップできる機能があり、多くの人は観ないで飛ばしてしまうようなのですが、監督作品のそれは飛ばさずに見たくなる(そもそもオタク仕草としてOP・EDのスタッフテロップをチェックするために食い入るように見るというのは置いといて)。
そういえば、45年前の『機動戦士ガンダム』のOPにだって、アムロが上に向かって手を伸ばしているカットがありました。
キャラ心理を仕草で示す
では本編では?挙げ始めるとキリがないので注目したい2点だけ。
まずは『機動戦士Zガンダム』第18話「とらわれたミライ」の回。回の最後、ベルトーチカに抱き着かれたアムロは、握手のために差し出されたカミーユの右手に対し、左手で握手をします。
このシーン、画面の奥で小さく描かれているだけなのですが、だからこそその細かい部分に対してしっかりと注文がなされたことが想像されます。
この回、ベルトーチカはかなりカリカリしていて、最初からミライやカミーユに突っかかっていて、アムロは彼女を宥めるために気を遣っています。ですから自分に抱きついてきているベルトーチカを引きはがしてカミーユの握手に応じるようなことはしない。彼女をそのままにしておいて、空いている左手で握手をする。
こういう気遣いをアムロがしていること、そして前作『ガンダム』から観ているファンに対してはこういう気遣いができるアムロになっていることがこの仕草から感じ取ることができます。
2つ目は『ターンAガンダム』第50話「黄金の秋」。ロランと共に地球で過ごすディアナが、ロランに呼ばれてロッジの中に向かうシーンです。
カットが切り替わる寸前、ディアナの手が柱を掴むように伸ばされています。
このカットについては依然指摘しましたので、詳細はそちらをお読みいただきたいのですが(「『想像なさい!』……『富野由悠季の世界展』に捧げて」)、この見えるか見えないかの一瞬の仕草で、ディアナが衰えているのではないかという印象を視聴者に残しているのです。
セリフにも容姿にも、ハッキリとディアナが老化している様子は描かれていません、しかし僅かなキャラの挙動だけで、観ている人に「彼女は衰えてきているのではないか?」と感じさせている。監督の演出のワザが光ります。
あ、もう1か所書きたい(笑)。
新訳『ZガンダムⅢ』、最後の最後にカミーユがファの腰に手をまわしてお尻をしっかり掴んでいるじゃないですか。
あの両手でガッチリの具合が堪らなくイイ。死線をかいくぐり多くの人間の悲しみを背負ってきたカミーユですが、その精神が壊れることなく、ファの身体という実に現実的・肉感的なカタマリをガッチリ掴んでこの場に踏みとどまっている、というのがあの両手から読み取ることができる。いうなればタナトスからエロスへの変化、生きているというのはこういうことと示されているようです。
TV版『Z』と最後のシーンが違うと言われますが、ただシーンを変える単純な変更ではなくカミーユの「生きる」ことへの意識の変化があのファを抱いた手に表れているのではないでしょうか。
アニメだからこそコントロールできる心情表現
さて、これまで事例を挙げてきましたが、こういった仕草への注意力は実写の映画とは相当に差があります。実際に人間が演じる実写作品では、仕草などは役者個人の演技力の範疇に入ってきてしまうからです。
例えばタバコの吸い方一つをとっても、咥え方、咥える場所、摘まみ方、火のつけ方、灰の落とし方などがあり、それが役者の心情によって変化する。その「ライブ感」が実写の面白さであり、同時に演出側のコントロールに関わる部分になる。
例えば小津安二郎さんや黒澤明さんといった監督たちはそのライブ感を嫌いました。何度もリハーサルを繰り返し、そのリハーサル通りの演技を役者に要求する。徹底的に自分の演出意図にマッチした場面が撮れる状態を万全に整えて、それからやっと本番を撮影する。ですから笠智衆さんなど監督に忠実な演技を何度も繰り返しできる役者を好みます(『ローマの休日』を撮った名監督ウィリアム・ワイラーもそういう人だったみたい)。
しかしそれだと演出側の力量以上のモノが生まれない可能性もはらんでいる。実写が演出と役者の相乗効果でより良い作品になるとするのであれば、役者が演出側の予想を超えた演技をしてきて、それによって演出を変えることもあっていいはずです。
福田雄一さんはリハーサルで爆笑しても、本番で役者がリハの時と同じことをすると笑わないそうです。だから役者は監督を笑わせるために、リハよりもっと面白いことを本番にぶつけてくる。それは演出側と役者の相乗効果の1つでしょう。
話をアニメに戻しますが、アニメではキャラが勝手に動き出すなんてことはありません。全て人の手で描かれた画ですから、画面の端々まで全て演出側のコントロール下にあります。だからこそアニメは忠実かつ純粋に作品世界を構築することができるわけですが、そうなると先ほど書いたように、演出側の力量以上のモノは生まれないことになる。
ただアニメは単純化した「行動」を積み上げていくことで心情表現らしく見せることができる。
例えばバトルで怒りを蓄えて敵を殴ったり剣を振るったり、もしくはスポーツの試合でプレイをすることなどです。
こういった直接的な「行動」は一見、心情表現に見えますがしかしその機微を示したり、もしくは表面に出ない隠れた心情が漏れ出ているものではありません。例えば剣を使ったバトルでキャラがその時に剣をどう握るか・どう構えるか、そしてどう切りかかるかといった仕草にキャラの心情が映し出されるし、それを演出側が狙って描き込んでいる。
これをアニメでやったのが高畑勲さんでした。高畑さんは『ハイジ』や『母とたずねて三千里』で徹底的に仕草・動作を積み上げてドラマを作り出しました。毎週放送するアニメとして考えると、ドラマとして抑揚が少なく成立しにくい『ハイジ』を、アルプスでの日々の暮らしぶりを丹念に描き、キャラの仕草・動作を積み重ねることで視聴者の鑑賞に堪える作品にした。
高畑さんのその後の作品、『じゃりン子チエ』や『となりの山田くん』などではそれが顕著に見えてきます。キャラクターが単純化され、心情の微妙な変化は各キャラの仕草・動作によってのみ描かれるようになる。
それを見つめてきたのが富野監督でした。富野監督は高畑さんを師匠と呼びます。それは富野監督が目指していた演出、特にアニメでしかできない心情の機微を仕草などで描写していく技術を、高畑さんから吸収したからではないでしょうか。
キャラの心情の微かな変化を、仕草によって示すこと。それは感情を抽象化して、視聴者の感覚に訴えることでもあります。この仕草にはどういった意味があるのだろう?と考えるのもいいし、そうでなくても無意識的にその仕草によってキャラの心理が読み取れている。
ところで、富野監督は「動くガンダム」にピースさせることで、何を伝えようとしたのでしょうかね?
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