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「想像なさい!」……「富野由悠季の世界」展に捧げて

先日、やっと「富野由悠季の世界」展に行くことができました。いやぁ、行けるまで長かった……一時は本当に「自分は行くことができない運命なのでは」と思ったほどでした。その話をするのは本論とは外れてしまいますので割愛しますが、まさに念願かなってという感じでした。

そして今回はそのレポートでもしようかと思ったのですが、他にも多くの方が様々語られていらっしゃいますし、コロナの影響でまだ会期も残っておりますので、そこは多くを語るべきではないでしょう。
そこで、今回は見てきた方にも、これから見に行かれる方にも、観覧の一助になるようなことを書こうと思っています。

先に書いておきます! 私は展示に不満があるわけではありません。「概念の展示」という不可能事項に挑んだ学芸員の方々の熱意には全く脱帽いたします。素晴らしかったです。

ですがもちろん、十全な展示であったかといえば嘘になります。ああしてほしかった、という部分も幾つかあります。

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まず言いたいのは、絵コンテの展示についてです。演出の生命線である絵コンテの展示が数多く、私も堪能させていただいたのですが、絵コンテはあくまでアニメーションに携わる人たちへの説明であり、多くの一般の方にとっては何だかよく分からない四コママンガらしきものでしかない。
記入された専門用語の説明は煩雑になるにしても、せめて読む順番くらいは表示をしても良かったのではと思います。会場の多くの方が絵コンテを逆から読んでいたのを見るに、富野演出の妙を感じることができなかったのでは、と老婆心ながら思っています。

そう、「演出」を観てもらえないと、富野監督はやはり「ガンダムを作った人」という説明で終わってしまうのです。

会場では『めぐりあい宇宙』のガラスに寄りかかるミライについての説明が展示されていました。
このシーンについては2004年にNHKで放送された「BSアニメ夜話」機動戦士ガンダムの回でも氷川竜介氏が語られていました。

(ブライトとミライの)そういうすれ違いが……ミライの側の演技に出ているのがすごい。ホワイトベースのブリッジにガラスがあるんですけど、こうコンってやると、最初、頭のところ(側頭部)がペタッと影になってガラス(のあることを表現している)。……普通だと、ガラスを表現するのにブラシか何かをかけちゃうんだけど、ガラスを何も描いていないのに、ここにガラスがあるというのを、身体の体重を移すとここら辺(二の腕辺り)にぺたっとガラスにくっついた跡ができる。

と絶賛しているのですが、これを氷川氏はあくまで「アニメーションディレクター安彦良和氏の凄さ」として説明している

もちろん絵コンテを見ると富野監督の指示として「コツンとガラスに頭をよせて」「肩をフロントガラスによせる」とあります。しかしこれをアニメとして成立させているのは安彦氏を含めた多数のアニメーターの技巧の賜物です。

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間違いなく芸術品、なのだが……

確かにアニメは画の力に頼るところが大きい。その点ではアニメの「画」を中心に展示せざるを得ないのは仕方ありません。

同様の点を論じるにあたり、もう1つ挙げたいのが『ターンAガンダムⅡ月光蝶』最終シーンの絵コンテと映像を並べた展示です。

私は最初にこのシーンをみた時(もう20年前になってしまった苦笑)、「ディアナが老いた」=「冬眠を止めたことで急速に老化が進んでいる」と感じました。しかしその後何度見直しても、ディアナの顔にはシワもなければ腰が曲がったわけでもない。雪の中で杖をついているシーンがあるのでそこで感じたのかな?と考えていました。

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今回絵コンテをよく読んでみると、当該シーン(シーンナンバー1928、ロランに呼ばれてバンガローの階段を上っていくシーン)の富野監督の指示に「ふらりと手すりを求めていくだろう」とありました。
確かに、このシーンを映像でよく見ると、カットが切り替わる直前、ほんの僅かにディアナが手摺りに手を伸ばしているシーンが描かれていました。

ほんの一瞬、人が認識できるかできないかの一瞬に「演技」を潜ませている。

こういった一瞬の所作、挿入された描写を蓄積することで「ディアナは衰えているのではないか」というのを、直接的な表現に頼らずに描いている。これが演出の妙だ、と感じてしまうのです。
それはアニメは「画」の力だけではないことを示している。

因みにディアナ左手薬指に光る指輪については「Why? I Don`t Know!」と書かれていて笑ってしまいました。

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当該シーンについて、氷川竜介氏も語っています。

おそらくは隠棲したディアナのために、ロランは尽くします。ディアナの立場も体調も、ロランの真意も、子細は一切不明です。しかし、不明で良いのです。われわれの日常にも、説明がないからこそ、より大きなものを見すえながら生き、暮らしている、それこそが人間なのです。ふたりが幸せそうに暮らしている……それが感じられるだけで、何の不足があるのでしょうか。(中略)であれば、ふたりのプライベートな関係などは、詮索するだけ野暮というものです。(ターンAガンダムDVD13巻ライナーノートより)

こういった描写もできるのがアニメの醍醐味であり、富野演出の妙技だと思います。

「アニメーション演出とは?」と考えた時に、演出家の意図をアニメーターが画として表現することで始めて「演出」として目に入ってくる。演出家一人ではできない複合的な表現だと再確認します。
だからこそ今回の展示も、富野由悠季の世界と銘打ちながら安彦氏や大河原邦男氏、湖川友謙氏や永野護氏など様々な人々の画が中心に展示されることになる。

その点には納得しますし、そうすべきだと思います。

しかし、わがままを言わせて頂ければそこに不満はあるのです。

アニメの持つ独自の表現能力からして、ただ単にシリアスに迫るよりも、より問題意識を内在化したドラマを確立するしかない。そう考える。
アニメはマンガ映画ではなく、かといってドラマにも肉薄し得ない。図式的に考えれば、漫画とアニメは同質なのだが、アニメそのものが独自に所有する表現を持てるはずだと考える。
今後は、アニメは他の芸術的ジャンルに匹敵するジャンルを形成するときがくると確信している。(富野由悠季『だから僕は……』より)

これは初めての演出作『鉄腕アトム』96回(富野監督の著書では101回)「ロボットヒューチャー」が放送された直後の富野監督のメモです。1964年。富野監督当時23歳。

富野

ターンAガンダムの最終回、ディアナの「今」をその立ち居振る舞いだけで描いた富野監督は、アトムの演出を始めて手がけたこの時から既に、独自の道を歩み出そうとしています。

この想いを持ちながら50年以上もの間、孤高の道を歩んできた富野監督の「世界」を展示するのには、時間的・量的な限界はあります。
その点で、こういったイベントが遅すぎたのは否めないと思います。仕方ないことなのですが。

「ガンダムを作った人」、そして「色々なロボットアニメを作った人」。今回の展示を観ても、多くの人はそれだけしか富野監督を見ることができないのではないか。
端的にいえば、「イイ展示なんだけど、もっと監督の凄さを知ってもらいたい!」ということ(笑)。

もっと様々な角度から富野監督の世界を照射できる方法はないのでしょうか。

例えば、他者の評価。
私は歴史を学んでいた時、「コ・ビヘイビオリズム」という歴史への分析方法に興味を持っていました。ビヘイビオリズムとは客観的に見ることのできる行動のみを研究の対象とする心理学・行動主義ですが、更にこの視座を動態化することで……っと、コムズカシイ話になってしまうのですが、この分析方法に「人は他者の評価を意識し、時にそれを自分の目的遂行に利用する」という話がありました(ような気がする)。

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加々美光行『鏡の中の日本と中国 中国学とコ・ビヘイビオリズムの視座』(日本評論社、2007年)

富野監督は自身の考えを周囲に伝播させ、あたかも既成事実のようにしちゃうことがあります。それが監督のリップサービスと捉えられることもあるし、都度都度言っていることが二転三転するとも思われたりしてしまう。しかも監督もまた自分の言葉を自分に信じさせているようにも思えるところがある。

監督の言葉が周りにどう影響していったのか、周りは監督とどう付き合ってきたのか、周りもまた監督をどう見ているのか。こんな点も監督を理解する重要な要素だと思って、私は監督の言葉を記録してたりしているのです。

「監督はいつも『所詮ロボットアニメ屋』と言って逃げているが、けどそう言いつつ好き勝手やってますよね」「ガンダムは全ての規制をロボットアニメという枠の中で吹っ飛ばしている」(宇野常寛)

富野監督の言葉の「表層だけ」を見ても、監督には迫れない。
監督へのそういったアプローチは富野作品世界を理解する大きな要素
だと思います。

『富野由悠季の世界』のポスターを見ても、「こうきたか」という気持ちで見られたし、これはいいことなのよと思いました。
自分の個展だと思ったら、そうは思えないわけだけど、今回の『富野由悠季の世界』は個展だと思っていないわけで、監督業には作家性もあるんだぞ、というアドバルーンにしたいわけです。(『富野由悠季の世界』展図録収載インタビューより)

長々書いてしまいましたが、『富野由悠季の世界』展を監督自身はこう評価しています。アニメは1人では作れない。だから携わった多くの人を並べて展示し、その中から富野由悠季という個人の「作家性」を1人1人が見つけ出して欲しい。
そういう「問いかけ」が、展示全体から見え隠れしている。そんな展示だったと思います。

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最後に、近々お目見えする等身大動くガンダムについて監督がよせたメッセージを。

二本足で歩かせることができなかったので、悔しいと思っています。ですから、君たちにお願いしたいことがあります。
もっと乗り物として動かしたいと思う人は、このガンダムを見上げて、解決しなければならない問題がいっぱいあるのだ、という想像をして、その解決策を考えだしてほしいのです。(GUNDAM FACTORY YOKOHAMA富野監督のメッセージより)

もう、このおジイちゃん、さらに先のことを考えているんだよ!これだけしか動かせなかったのは悔しいけど、それでも作ったのは未来への課題なんだ!この先は君らがやれ!……って、この想いは50年以上、新しいものを作ろうとしてきた人の悔恨と自負があるから重みがあるのではないでしょうか。

アイーダ

「想像しなさい!」(アイーダ・スルガン)

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