12音技法から考える設計哲学

アルノルト・シェーンベルク


アルノルト・シェーンベルク(1874年9月13日 - 1951年7月13日)は無調音楽を作曲する為の12音技法を発明した人で、レジェンドです。

ちなみにシェーンベルクは、あの無音の音楽を作曲したジョンケージの先生だった方でもあります。ジョンケージが禅や極東の文化に触れる相当前の若い時に師事されたのだろうと思います。僕自身はジョンケージのことを調べてこの偉大な作曲家の存在を知りました。ジョンケージのことはメディアアートに興味があったころプログラムのことを調べていてジョンケージを知りました。

いつも思うのですが、この年代を生きた方は相当の情熱を持って物事に取り組まれていると尊敬します。現代芸術や美学の分野は産業的にはあまり関心や興味の持たれる分野でもないですし、インターネットなどコンピューティングとは違い知識や文脈を維持する為には、第一線で活躍するプレイヤー達の知識だけでは難しく、やはり情熱が大部分を占めたのだと思います。

狂ったように前進する。見習いたいです。


12音技法とは

12音技法とは何か?を説明しているウェブサイトはウェブ上に沢山あるのでそちらを見て下さいw 

十二音技法 - Wikipedia

簡単に説明すると12音技法という名前のとおり、1つのチャンクのうちに12個の音を全て使い切る技法です。音楽について知らない人でも対位法という名前だけは聞いた事があると思います。それと同じレイヤーで、つまり5線譜の音の並べ方の話です。

ピアノの鍵盤を見て下さい。1オクターブの中に半音(黒い鍵盤)も含め12個の音がある事が分かります。C(ド)からC、D(レ)からDでもいいです。そのCを使ったなら、次は他のDEFGなど他の音も全て使わないと再度Cを使ってはいけないという規約(ルール)のある作曲法が12音技法です。展開方法として、一度12音を使い切ったら、その音列を反転させたりします。つまり、12個の音を平等に使い切るというルールは維持されて展開もされます。


12音技法をデザイン視点で考える

最初この作曲法を知った時に「なんて素晴らしいデザインなんだ」と思いました。全ての音を平等に扱います。そこには作曲者の価値観や欲などは存在せず公平でフェアな印象。この作曲法を知ったのは二十歳ぐらいの時ですが、その当時は魅力的に思えました。

デザインは基本的に切り捨てる行為です。自身の仮説、使う人の問題解決、どうあるべきかを具現化する行為です。それは特定の主に産業や生活の問題解決の為に行われるもので、それはつまり文化を意識することによって切り捨てが既に行われているとも言えます。それに比べて12音技法はどうでしょうか。全ての音を使い切る。潔すぎて自身のアイデンティティやその曲を聞く聴者のことも眼中にないように感じられるデザインです。

もちろん、12音技法でも作曲者によって響きが変わります。ある意味そこがこの作曲法の醍醐味でもあるのですが、技法のルールだけを語る場合、本当に一貫している。

アートとデザインは違うと言いますが、まさしくその通りです。普通に調性音楽を聞いていた方に無調音楽を聞いてもらうとおそらく興味もわかないでしょう。音楽とは楽しいものだ。とか言うでしょう。そんなもの、言わせておけばいいのです。どう思うかなんてのは各人の自由ですからね。

ただ脈々と体系的に繋がれている知識や技法、これこそ僕らがホモサピエンスである証拠です。

と、少し話しがそれましたが、12音技法は、それぞれの音を平等に扱う技法ということが分かったと思います。


リーダーがいない環境下とは


全てをフラットな関係にすることは、プログラマやデザイナにとっては理想的のように語られることが多いです。「管理職なんていらない。」なんてね。これは自律を前提にするとうまく機能する場合が多いと思います。

ただし、それを利用者視点でみた場合は機能するとは思えません。結局のところ利用者と組織は1対1の関係です。組織としてのアイデンティティを持つ必要があります。

組織の中で構成員がバラバラに動く場合、製品の設計段階から一貫性を欠如する結果になる可能性があり、それが利用者との1対1のコミュニケーションを複雑にさせます。組織内で個別最適化されてしまい、チグハグになった製品に利用者は感動しません。エンターテイメントなどもそうです。ディズニーは成功例で分かりやすい例ですね。(一貫性を守る為に著作権の延長の問題など、社会から批判もあります。レッシグのプレゼンテーションがオススメです。<free culture> Lawrence Lessig 日本語字幕版)


偽物の自由、裁量権


12音技法を知った当初は、その設計思想に感動しました。でもそれぞれのエージェント(音)の動きを制御している点は変わりません。つまり、僕が12音技法に感じた「平等」という印象は間違っており「偽物の平等」だったと気づいたのです。無調音楽として大勢から愛されない性質に加えて、そのデザインから読み取れる思想自体もうまく機能するとは思えないのです。

例えば情報処理のマルチエージェントシステムも同様です。全てのエージェントが自律して動いているように見せて、社会の問題などを解析して「うまくコントロールしている」にすぎません。これは平等とは言えない。自由でもない。

本当のフラットな関係を気づくには完全にリーダ不在である必要があるのです。あるいはリーダではなく「ビジョン」がその役割をする可能性があります。「ビジョン」とは抽象的なもので、ルールでもありません。ビジョンはエージェントそれぞれに解釈の自由があります。

僕は12音技法についての個人的解釈に満足したあとに、ジョンケージ、鈴木大拙など禅における、コミュニケーション、オブジェ同士の関係性を知って、これこそが求めていた「自由」だと感じ本を読みまくりました。

その思想、設計を製品に落とし込みたいと考えましたが、それは前述した通り、うまく機能しない点が大きいです。というか、製品にその設計思想を落とし込めると思うこと自体が禅とは言えません。そのままでいいのですから。何かを説得すること自体が傲慢です。


デザインはそもそも傲慢なもの

平等をデザインするのは傲慢で危険だとも考えます。というか、デザインはそもそも傲慢なものということを肝に銘じ、他者に配慮する製品を作っていきたいと思います。


この記事は、OnefuncPaperからの転載です。