深く考えることが大好きな人のための役に立たない面倒くさい話。
はじめに
人は自分の見えている世界がすべてだと思い込んでいるので、
自分だけの狭い世界で考えに考え抜いた結果、ひとつの答えに辿り着いたのであれば、誰でも頑固にもなるでしょう。
この世のトラブルは正義と正義のぶつかり合いです。
山の東側の麓の住人と、西側の麓の住人との争いです。
もしも、山の頂上まで登って自分とは反対側の景色を目にすれば、何かに気づくかもしれません。
でも残念ながら、人は考え方がとても下手くそなんです。
1,目の前にある問題をフラットに捉える(判断材料を整理する)
・愛とお金のどちらが大切か?
究極の選択です。
愛には恵まれないけど金には一切困らない人生と、
超貧乏だけど愛に満ち溢れた人生・・
あなたはどちらを選びますか?
愛なのか、お金なのか?
大事なのはその答えではなく、その理由。
「お金があれば何でも買える、愛だって買える!」とか、
「貧乏であんな惨めな生活をするくらいなら、愛なんていらない!」とか、
「最低限の暮らしさえ出来れば、私はやっぱり愛を取ります。」とか、、
ほとんどの人がそんな風に答えると思います。
しかし、それらは思い込みです。
大切なのが愛であろうとお金であろうと、初めから答えが決まっていて、
自分がそう答えるのに都合のいい情報を集めています。
自分だけの狭い世界であっちに行ったり、こっちに行ったりしているだけ。
最低限の暮らしができればお金はいらない、だから私は愛に恵まれた人生を送りたい・・
そりゃそうだよね。(笑)
でも、愛と金・・両方を同じレベルで比べていますか?
「最低限の愛」という担保があれば、お金たくさん欲しくないですか?
この議論の本質は、、
河川敷にダンポールで囲った家をつくって、明日どうなるか判らない暮らしであっても
大好きな人と愛し合ってさえいればいいのか?
それとも、お金には一生不自由しない贅沢な暮らしが約束されているけど、
人との接触がまったくない、なんだったら犬や猫、ペットも飼えない。
コンピニで店員さんに作り笑顔もしてもらえない。
目も合わせてもらえない、誰にも声をかけてもらえない。
数字で例えたら、、
金がゼロで、愛が100の人生、
それとも、金が100で、愛がゼロの人生・・どちらを選ぶのか?
そういうことを問うているんです。
100対ゼロでは現実味に欠けるので、30対70くらいで考えてみましょう。
お金には不自由なく、そこそこ贅沢はできるけど、夫にまったく魅力を感じない。
今となってはなんで結婚したのかも分からない。
世間体もあるので離婚はしないけど、ずっと我慢している・・みたいな生活と、
毎日家族で食卓を囲んで普通に楽しいけど、
日々お金に追われて、もちろん共稼ぎで、贅沢なんてできないし、
家族で外食も旅行もしたこともない・・みたいな生活と、、
どちらの生活を取りますか?
これなら想像できるでしょう。
愛とお金の条件を揃えてこそ、意味のある議論になるんです。
じゃないと、どれだけ考えても全く意味がありません。
お金を選ぼうが愛を選ぼうが、それこそ思い込みです。
では、あらためて質問します。
愛とお金・・どちらが必要ですか?
・要望とクレームの区別ができない人
自分の希望通りに行かないと、いちいちクレームをつける人がいますよね。
商品が壊れているとか、店員に殴られたとかであれば解りますが、
挨拶ができていない!・・なんてクレームは可笑しいです。
挨拶なんてものは、お店側が良かれと思って勝手にやることです。
教育不足であろうと、それは買い手側がとやかく言うことじゃありません。
なんだあの店員は!って思うことはあるでしょうが、その店員を教育するのもしないのも、お店側の問題。
それを承知で言うのであれば、こうした方がいいよ・・という提案だし、
こうしてくれたら有難い・・という要望です。
あなたがコンビニで買い物する時に、
明太スパゲッティをレジまで持って行って、
ここに目玉焼き乗せてくれるかしら?・・って言いますか?
言ってもいいですよ、それが要望ならね。
でも、それが通らなかった場合、カリカリして文句を言いますか?
他人の問題と自分の問題に、線引きが出来てないんです。
買い手側の要望や提案を受け入れるか否かはお店の問題です。
もちろん、実質的な害を被ったのであれば、自分に降りかかってきた自分の問題でもあるので文句は堂々と言って良いと思います。
でも残念ながら、買い手側の勝手な要望だったり、相手が望んでもいない提案というのは、好きか嫌いの話です。
他人の問題に対して、自分が気に入るか気に入らないかという勝手な判断基準を用いているんです。
勝手にカリカリして土足で踏み込めば、当然の如く争いが生じます。
人はいろんな場面で同じように悩んでいます。
自分の問題と、他人の問題の区別ができない。
目の前にある問題をフラットに捉えることができれば、その区別も難しいものではありません。
余計な怒りや悩みはなくなるし、不要な争いも起こらないでしょう。
2,表裏一体
・表現したいことをこれでもかーって書けるんですよ、誰でも。その周りの、絵で言えば影の部分をどう見せるかが大事でね、、
絵の話ですけど、、
光が当たってるところを描く時にね、
それと同時に、影の部分をどう描くかってことが重要だったりします。
影があるから光が目立つ。
ほとんどの人が光の部分しか見ようとしない。
答えばかりを追いかける。
文章も同じです。
では、具体的に説明しましょう。
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日曜日の公園で一人淋しくベンチに座って・・なんてことを描く時に、
僕は寂しい、独りぼっちだってことを、これでもかぁって表現するのもいいんだけど、
淋しい自分の周りにいる人たちをどう描くか?・・なんですよ。
ゴザ敷いて、お弁当広げて、幸せそうな家族がいて、
子犬が走り回っていて、ギャーギャー泣き叫ぶ小さな子供がいてお母さん大変みたいな。
その向こうの方には恋人同士、ひざ枕なんかして、
それを見て見ぬふりして、、僕は寂しくなんかないよって読書してるフリなんかして、、
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全体の中に独りポツンと自分がいる。
楽しくやってる家族とか恋人同士が「影の部分」
1人ぼっちで寂しい自分が「光の部分」
光の部分というのは強調して描きたいところです。
もっと話を膨らませれば、過去の楽しかった思い出も「影の部分」になります。
彼女とこの公園で散歩していた昔を楽しく描けば描くほど、今の自分の独りぼっち(光の部分)が際立ちます。
影が大きく濃くなれば、一点の光でも輝いてみえる。
・・そんな感じ。
絵を描く時も文章を書く時も同じ。
光をより強調させるには、影の部分をどう描くかが大事です。
同時に、
受け取る側の人間が、影の部分をどう捉えるか?・・ってことも、
人生において重要なことでしょう。
物事にはすべて陰と陽がある。
それらをちゃんと感じ取れるのか否か?
それによって、人生は変わってくると思いませんか?
役に立たないどうでもいいことでも、全体を通してみれば重要な役割があります。
そういうことに拘っているとね、いろんなことが見えて来て、
結局は仕上がるんですよ。
3,目的を意識する
・反論するなら代案を出せ・・を考える
反論する人の目的は何か?
自分の主張を通すのが目的、相手を批判すること自体が目的・・
そんな人たちに対してなら、代案を出せ!って反撃したくなりますよね。
まるで政治の討論番組。
与野党の攻防です。
国や国民の利益とか安全を守るためという
同じ目的を持っているはずなのに、
あの人たちは相手を批判するのが目的であり、
自分の主張を押し通すこと自体が目的になってるかもしれないですね。
同じ目的を持った組織・・例えば、会社や家庭での議論において、
それは違うと思う!
それじゃあ駄目だ!
・・なんて代案もなしに反論されても、僕は全然OKです。
逆に有難いくらいです。
もちろん僕は、反論する理由をちゃんと訊きますけどね。
どこが悪いのか、その根拠を尋ねます。
その根拠がどんなものかによって、議論もより深まる。
僕が伝えきれていなかったこと、見えていなかった部分もあるかもしれない。
代案ではなく、現在進行しているこのテーマを深ぼっていくんです。
それをしないで、反論するなら代案を出せ!・・って、少し乱暴ではないかと。
どちらの案が良いのか?って上っ面だけを比べても
薄っぺらい議論にしかならないと思いませんか?
反論するなら根拠を示してもらう方が、より良い結論に辿り着くんです。
あなたの思いを熱く語るなら、
その考えに至った強い根拠みたいなものがありますよね?
根拠もなしに反論する人は、ずっと反論し続けます。
そんなのは駄目だぁっていう感情が脳内いっぱいに広がって、正しい判断が出来なくなるんですね。
そういう人のことを「頑固者」といいます。
僕はよく頑固な人だと言われます。
先日もある方に占ってもらいましたけど、
どんな角度から占っても、「頑固」と出てくるらしい。(笑)
あのね、、
僕のことを頑固だと思う人は、何の根拠もなくいろいろ言う人なんだと思いますよ。
自分が示している以上の強い根拠がなければ、誰だって納得できませんよね?
当たり前です。
それを頑固者って決めつけるのは、、薄っぺらい。
・いかなる時も体罰はNGなのか?
これから体罰に是も非もないんだという話をします。
いじめ問題とか体罰とか・・
いつの時代もそんな話題が世間を騒がせます。
あなたはどう考えますか?
いかなる時も体罰はNGなのか?
それとも場合によってはありなのか?
中学生になって、はじめて学生服ってやつを着た時の話です。
僕はあの学生服が大嫌いでした。 窮屈で。
首周りも、格好そのものも。
いつも白いワイシャツの襟を立てて、 中に赤いTシャツをチラ見させて、 そして1番上に黒い上着を着てました。
もちろんボタンなんか全部はずして。
ちょっと決まってるかな?・・なんて格好つけてましたね。
親からは、ちゃんとホックを閉めなさいとか、 だらしないとか、不良だとか言われてましたけど、素直な良い子供でしたよ、僕は。
そんなある日 担任の先生が。
「根本ー!俺の言ってることが判らんかー」
何? なに?
素直な良い子が、どんどん悪の道に染まっていく・・ みたいに先生は思ったのでしょうか?
右から左から、往復ビンタが飛んできます。
「おまえは何を考えてるんだー」
先生ひとりで勝手に盛り上がって。
その頃は子供だし、いちいち説明できないんですよ。
僕は不良なんかじゃありませんから、心配しないでください・・って、
ちゃんと説明できれば、殴られなかったかもしれない。
ただ、先生がそんな風だから、こっちだって対抗したくなるでしょ。
僕はただ先生をにらむだけで、なんにも言えない。
髪の毛引っ張られてビンタされて。。
今考えると本当に腹立たしいけど、 この先生、アホでしょ。
僕はただお洒落を楽しんでるだけ。
先生はそれに気づかないから、 お洒落する場所じゃないんだって教えられない。
悪い生徒って決めつけて。
わけも解らずに殴られていました。
僕はいったいなぜ殴られているんだろう?
先生と僕の心は、全くつながっていなかった。
だから、先生の言葉の意味が僕には解らない。
僕の気持ちも先生には伝わらない。
子供だから、伝え方もわからない。
体罰は時には必要だって言ってる人・・ 愛があろうがなかろうが、殴ってるやつはお馬鹿さんです。
殴ってでも体で覚えさせて、後から心のケアをすればいい。
殴られた生徒も、
「あの時、先生が殴ってくれたから今の僕があるんだ。」・・なんて思う。
何が正しいのかなんて誰にも判りません。
ただ、問題は・・ 体罰が必要なのは「当然」とする考え方。
時には必要なんだと決めつけた時点で教育者として成長が止まっているんです。
指導者にはコミュニケーション能力の高さが求められます。
その能力が低いが故に体罰は必要であると決めつけてしまう。
ただそれだけのことだと僕は思います。
もしも、幼い子の命に係わる緊急時、聞き分けのない我が子に手を焼いてしまったら?
叩くでしょ?
じっくり諭してる場合じゃない。
言葉が通じないから、仕方のないことです。
人間の持つコミュニケーション能力には限界があるから、体罰という手段を使うしかない。
体罰というのは手段であり、生徒が成長するという目的があります。
その目的を達成するために、体罰という手段しか使えない無能な指導者がいるのも事実でしょう。
だけど、そんな指導者から唯一の手段を取り上げて、代わりの道具も与えない。
まだ終わりじゃないのに。
本来の目的は置き去りにされています。
教育委員会もそうだろうし、世間の声もそう、、
体罰が是か非かを討論するテレビ番組がよくありますが、あそこで主張している人たちもそう。
体罰という手段は絶対にNGというのはいいとしても、
・・で、それからどうするの?
本来の目的達成のための議論もせずに、ただ感情に支配されている。
そんな人たちが、 目的達成のために体罰を手段としている鬼教師のことを批判している・・
滑稽にしか思えない。
もちろん、指導者の鬱憤を晴らすための行為なら、駄目に決まってます。
・・というより論外ですよ。
論外というのは、これをゴッチャにしてしまうと、このテーマを考える意味がなくなります。
時には体罰も必要だと考える人たちと、いかなる時も絶対にNGと言う人たちがいて、
教え子に健やかに育ってほしいという彼ら共通の思いと目的がある前提で、
体罰という手段を使うのは有か無しかを問うているんです。
いかなる場合も体罰は絶対にNG!・・と言っているあなたも思考停止状態になっていませんか?
この「共通の目的」・・について、さらに深く考えてみようと思います。
・ほめることと叱ること、、どちらが大切か?
体罰というと、どうしても悪いイメージがついてまわるので、
子育てに大切なのは褒めることか? or 叱ることか?・・という視点で話を進めます。
youtubeで面白い動画を見つけました。
亀田史郎vsひろゆき!超ヒートアップ議論で亀田父ブチギレも? (youtube)
褒めること or 叱ること・・どちらが大切か?
どちらが大切なのか?・・の答えにあまり意味はありません。
はじめから答えを決めつけている人は、
自分の考えに都合のいい情報やイメージを膨らませているだけではないですか?
動画の中の亀田史郎さん、 彼は叱ることの大切さを力説していましたね。
でも、自分で言ってました。
「俺は褒め方なんて知らんからな・・」
偏ってるんです。
叱ることの方が絶対に大切なんだと訴えるのならね、 褒めることの大切さを知ってから言わないと。
~の方が・・と比べてるようで全く比べていない。
褒めることの方が大切だと言ってるあなたも、 そう思い込む何かしらの体験があったのでしょう。
逆に叱られることについて、いい経験をしてこなかったのかもしれない。
そりゃぁ、思い込むよね。(笑)
「叱ることは支配。自分にとっての理想を押し付けてるに過ぎない。」
そんなこと言ってる人もいます。 酷い思い込みです。
それを言うなら、
「自分の理想を押し付けるだけの支配するような叱り方は駄目だ!」
・・って言って欲しい。
その人がそういう叱られ方しかしてこなかったのかもしれません。
そんな風に思い込んでる人は、褒めることに関して良いことばかり並べます。
どちらか一方を自分の都合のいいように持って行ってるんです。
ほとんどの人が自覚してないと思うけど。 初めから答えが決まっている。
どっちが大切か?・・なんて考えるだけ無駄になります。
褒めとけば僕みたいな奴はすぐに調子に乗ります。
それだって、上手いこと言いくるめられてるだけかもしれません。
どちらも平らに比べないといけない。
「叱って支配するのと、褒めて上手いこと言いくるめるのと、
あなたはどっちがいいと思いますか?」
こんな風に自分に問いかければ、少しは考える意味が出てくると思います。
もしもあなたが、叱ることの方が大切だ思うのなら、
褒めること、褒められることにもっと真剣に向き合う必要があると思います。
逆もしかりです。
褒めることの方が大切だと思うのなら、 叱ること、叱られることにもっと目を向ける必要がある。
以前、同じようなテーマでセミナーを開催したことがあります。
いろいろ感想が届いたのですが、
「やっぱり私は褒めることの方が大切だと思います。」・・
そんな声が多かった。。でも、
やっぱり・・って何でしょうね?
僕の話を聞いたすぐ後に、やっぱり褒めることの方が大切だと思う・・と言うからには、ほんの数時間のあいだに、 今まで褒めることの方が大切だと思っていた根拠となるものと同等の、叱ることも大切だと思えるような体験なり気づきなりがあり、 同じ条件を整えることができたその上で双方を比べた結果、それでもやっぱり褒めることの方が大切だと改めて強く思えました・・と言う意味の「やっぱり」でしょうか?
僕がそう尋ねると、その方は嫌になったのか苦笑いしながら去って行きました。
コミュニケーションが上手く取れていませんよね。
僕は相手のことを察するとか、思いやらないといけないだろうし、 その相手の方も、僕に合わせる気持ちというかなんと言うか、深く関わろうとしていません。
あのぉ、、一応言っておきますけど、 僕は普段プライベートでこんな小難しい話なんかしないですよ。
これを読んでいる人たちも、そんなこと承知しているものだと僕は思っています。
どうでもいい詰まらない僕の話を深く考えるのが好きな人が、ここまで読み進めている。
そういう目的があるでしょう。
僕もそれを承知しているので、更にしつこいくらいに深ぼっているんです。
「やっぱり僕は褒めることの方が大切だと思います!」って言うからには、 その「やっぱり」は何だろう?って思うんですよ。
それで、さっきのように長々と、そのやっぱりと言うのは こうこうこういうわけで、その結果やっぱりそう改めて強く思えましたということなのかな? ・・って相手の方に確認を取るんです。
そこで苦笑いして去って行くって、お互いに何かしらのズレがあるってことですね。
何かしらのズレ・・?
コミュニケーションのズレ?
お互いのコミュニケーション能力に問題があるのかもしれないし、
もしかすると、そもそもの目的、、 お互いがお互いの目的を認識していないのかもしれない。
僕の元を去って行ったその方の目的が、思考力を高めるためみたいなものだったら、
今回のケースでは、あきらかにその方の読み取る力が不足しているのかもしれません。
あきらかにと言っているのに、かもしれない。。
僕なりの気遣いです。(笑)
思考力を高めるためにセミナーに参加して、そのために僕にコンタクトをとってるのに、
「僕はやっぱり褒めることの方が大切だと思います。」・・って簡単に言われたら、もうちょっと考えてよ~って思ってしまいます。
でも、もしも、
その方の目的が何かのスキルアップとかではなく、単純に僕と楽しくお話したい・・であったなら、
そして僕もそれを承知していたら、あんな風には返さなかったと思います。
相手のことを理解しないと、コミュニケーションにもズレが生じてしまう。
相手のことを理解することを含めてコミュニケーションなんでしょうね。
叱られる時に、なぜ叱られているか?と目的意識が働いていれば、素直に受け入れることもできるかもしれない。
セミナーの参加者であれば、ある程度の目的意識があるかと思いますが、
日常生活において、「目的」なんていうものを意識することはあまりないでしょう。
子供が親に叱られる時もそう。いきなり叱られる。
将来、立派な大人になるために、僕は今叱られているんだなんて思わないでしょう。
なかなか素直に受け入れられないと思います。
難しいですよね。
それに比べて褒められたら誰だって嫌な気はしません。
目的意識なんてものがなくとも、褒められたら気分はいいし、その気になれます。
褒めることと叱ることって、そもそも同じ条件ではないんですよ。
条件の違う者同士を比べても、意味がありません。ないんです。
子供の頃からボクシング漬けで、世界チャンピオンになるんだという目的意識が常にあれば、厳しく叱られることが何かしらの効果を生むことになるでしょう。
目的意識を強く持っている子供が叱られるのと、自由気ままに、のほほんとしている子供が叱られるのでは、その受け取り方が違って当然です。
叱るとか怒るとか、批判するとか注意するとか、、難しいんです。
それら以上に、どのような意識を持たせるかの方が重要だったりします。
それが出来ていれば、愛のムチというものがより有効なアイテムになる時もあるかもしれません。
時には愛のあるムチは必要だと考える人や、叱ることが大事なんだと考える人たちは、
それなりの成功体験みたいなものがあるんだと思います。
そういう人たちは、叱るという行為の前に大事な一工程を抜かりなくやっているんだと思います。
無意識にね。
では、褒めるという行為の前に、なにかをやりますか?
こんな理由があるから今、あなたのことを褒めてるんだよなんて、
目的意識を持たせるなんてことはしないし、する必要もないと思います。
叱るという行為の前に大事な一工程に抜かりない人とそうでない人とでも、そもそも同じ土俵に上がってないんですよ。
そんな人たちが議論を重ねても、ずっと平行線を辿るのは明らかです。
人はいかに無意味な議論を重ねているのかということ。
争う必要のないことで争うんです。
それが人対人ならまだいいけど、自分の頭の中で右往左往しているとしたら、
あなたは悩む必要のないことで悩み、傷つく必要のないことで傷ついているってことです。
もしも、「傷つく必要のあること」
あるいは「悩む必要のあること」というものがあるとしたら、
そんなものに深く関わって、丁寧に向き合うことも大切だと
・・僕は思います。
4,階層を分けて考えると見えてくるもの
・好きの反対は無関心なのか?
好きの反対は嫌い・・ではありません。
好きの反対は、無関心です。
この言葉の真意は、
意識がそこにあるという意味では、好きも嫌いも同じだ。
良くも悪くも意識してもらえている。
嫌われたって、意識してもらえないよりはいいだろう。
・・というところから、「好きの反対は無関心」となります。
階層を意識して考えてみると判りやすいかもです。
同じ階層に、好きと嫌いがあります。
その一つ上の階層に、「関心がある」が存在します。
「関心がある」というグループの中に、「好き」とか「嫌い」というものが存在する。
同じ階層、同じグループ内のものを比べて、好きの反対は嫌いとなるのは自然でしょう。
でも、、
「好き」の上の階層に存在する「関心がある」
「関心がある」の反対が「無関心」
故に、好きの遥か上の反対側には無関心というものが存在するけれども、
好きの反対は無関心・・という違う階層のものを比べるのは無理がありませんか?
間違いでもないけど、物事をフラットに見ていないかもしれない。
好きの反対は紛れもなく「嫌い」です。
普段、なんとなくのイメージだけで何かを捉えていると、
頭の中がゴチャゴチャになっていることにも気づかなくなっちゃいますよ。
自分が何について悩んでいるのかすら解らなくなる。
長いトンネルで出口が見つからない。。
そうなると、またなんとなく思う方向へ進み続けるしかありません。
なんとなく・・はきっかけに過ぎず、なんとなくだけで進み続けてはいけない。
その「なんとなく」をちゃんと考えてはっきりさせる。
整理して仮説にして、それをまた検証して形にしていかないと、
あなたの求める何かには辿り着かないと思います。
好きの反対は嫌いじゃなくて無関心・・だと本気で思っていませんか?
好きのずっと上の階層の反対側に位置するものが、無関心というものです。
好きの反対は紛れもなく嫌いです。
「好き」の同じ階層内にある言葉の中で、正反対に位置するものは「嫌い」なのであります。
こういうことを一瞬でというか、普通に整理して理解できない人は、
自分の周りに起こるあらゆる出来事に対しても、ある意味歪んだ捉え方をしてしまいます。
ある意味・・と曖昧にしたのは僕の気遣いです。(笑)
整理して理解できなくて怒っちゃう人に対しての気遣いです。
物事をちゃんと階層分けして、整理して考えられるようになるだけでも人生は変わります。
そうやって考えられる人生と、考えられない人生・・違って当然です。
・大宇宙から見た死刑制度と小宇宙から見たそれ
今までの話を踏まえて、
死刑制度について考えてみましょう。
この行為は悪いことだ!・・というのは絶対的なものですか?
時代とか国とか、その時の状況によって変わりませんか?
ですが、死刑制度が是であろうと非であろうと、
令和の今の時代に生きる、ほとんどの人は麓的な感覚でものを考えます。
それが悪いわけじゃなくて、むしろそれが当然ですよね。
例えば、、
弱い者を殺して強い者が生き残るのは、自然界においてごく当たり前のことで、
そこで死刑制度なんてものがあったら、強い遺伝子は残らない。
・・なんてことを、国会議員が言うべきじゃありません。
この国を平和にするために、そして国民を幸せにするために、
国民から選ばれた国会議員が言うわけもないし、言っちゃいけない。
法律なんてものは、どちらが正しいか間違ってるかを計って作られるものじゃありません。
秩序だったり、治安だったり、、この国がどうしたら一つにまとまるのか?
そのために憲法だったり法律が作られるんです。
麓のルールは、麓の平和を考えて作られるべきですから。
その麓の住人であれば、それに従うのも自然です。
「好きの反対は無関心ではありません。
好きの反対は紛れもなく嫌いなんです。」
遺族の感情を考えたらとか、
犯罪の抑止力になるから死刑制度は必要という意見に対して反論するならば、
死刑に処することよりも更生の道を与える方がいい・・というように、同じ階層内の話をぶつけるべきです。
それを、ずっとずっと上の階層の反対側に位置する死刑制度反対論を出しても議論になりません。
例えば、、
強い者が好き勝手に生きて行けば、強い遺伝子が残ります。
その種族は長年にわたり繁栄し続けます。
弱いものが殺されようが当たり前のことで、
そこに殺人罪を適用したり、ましてや死刑なんてあり得ない。
猿の惑星じゃないけど、
サルがどんどん知恵をつけて、世界征服を企むようになったら人類存続の危機となります。
だからこそ、強い遺伝子を残し続けなければならない。
死刑制度なんてものは今すぐ廃止するべきだ。
・・なんてことを言う人が現れたら、
好きの反対は無関心じゃない。
好きの反対は紛れもなく嫌いだ・・と大きな声で反論してください。
今の時代のその国の治安だとか秩序だとか、麓的な計りで作った麓の法律で、
麓の域を遥かに超えるような裁きを、本当にしてもいいのでしょうか?
生物学的に考えたら、治安とか秩序って何ですかね?
到底計りきれない何かがある中で我々人間は、小宇宙の法律で大宇宙を裁こうとするわけです。
死刑制度の是非について語る前に、
いったい私たちはどこのどんな立場で議論するのかを明確にしなければならないのです。
そうでないと、賛成する理由と反対する理由が噛み合っていない、
小学生の学級会以下の議論になってしまうんです。
なんてことを長々と書きましたが、本当にどうでもいいことですね。
好きの反対は無関心ではありません。
好きの反対は紛れもなく嫌いなのだ・・と言いたいがために小難しい話をしてしまいました。(笑)
こういう話をするとですね、僕に対してムキになる人がいます。
根本さん!それは違うと思いますっ!
強い遺伝子が残らなくても、優しくて社交的な遺伝子が引き継がれていけば、世の中は平和になるじゃないか!
狂暴性のある遺伝子なんて必要ない。
だから、やっぱり死刑制度は必要なんだ!・・
確かに同じ階層での反論になっているようで、つい、なるほどぉと頷いてしまいそうですけど、それが僕に対してのものだったら。
死刑がありかなしか?!・・なんて話をしているわけじゃないと言っているのに。。
それこそです。
僕が大宇宙の話をしている時に、あなたはいつも自分の小宇宙という思い込みで反論してくるんだ。
大宇宙か小宇宙かの判断は、いつも相対的なものなんです。
5,守破離
守破離とは、弟子が師匠の教えを守り成功して行く様を表した言葉です。
師匠から見た理想的な弟子の成長過程であって、
「その過程を踏んでも成功なんてできない!」とか批判するつもりはありません。
守破離なんていう全く関係ないように思えることをテーマにしたのは何故だと思いますか?
今まで、好きの反対は無関心なのか?とか、体罰は時には必要なのか?とか、死刑制度についてもお話してきました。
階層を上げていくと今までとは違う景色が見えてくるということをお伝えしてきたつもりです。
自分の具体的な成功例を抽象化して、それをまた目の前の誰かに当てはまるように具体化することで再現性が生まれる・・こんな風に階層を意識して守破離を考えてみましょう。
【守破離の守】
徹底的にパクるとか、とにかく真似るみたいな近視眼的に学ぶことではありません。
師匠が成功したとおりのことをそのまま真似ても上手くいくとは限りません。
それは師匠にとっての答えであり、誰にでも当てはまるものではないでしょう。
だからこそ、先ずは抽象化が大事です。
弟子が山の麓にいて、自分の足元しか見えていないのに対し、
師匠は頂上からいろんなものが見えている。
師匠にはいったい何が見えているのか?
師匠にとっての答えは、どんな景色を見た上で導き出されたものなのか?
それが、麓の景色しか見たことのない者の考えるべきことであり、破に繋がる守の本質です。
師匠と同じ景色をじっくり見ることこそ守破離の守です。
【守破離の破】
師匠の背中を必死に追いかけて、頂上に辿り着いた時、
そこには今まで見たことのない景色が広がっています。
その景色を見て、今まで師匠が何を感じてきたのか?
そして、これからあなたが何を感じるのか?
人にはそれぞれの答えがある。
正解も不正解もない・・
そんなことを言う人たちがいますが、
それは同じ景色を見ている者同士だから言えることで、
何も見えていない麓の住人が言うセリフではありません。
頂上にいる人から見れば、間違っているものは間違っている。
頂上と麓では見えている範囲がまるで違います。
師匠と同じ山の頂まで登り、師匠と同じ景色を見た時に、
「人にはそれぞれの答えがある。正解も不正解もない・・という状態」になるのです。
その時、師匠と同じ景色を見ているはずなのに、違った思いが溢れ出すかもしれません。
それこそが、守破離の破です。
頂上からは、今まであなたがいた麓の景色も見えるでしょう。
そこに、あなたにとっての答えがあります。
弟子が麓にいる時に師匠からもらう答えとは全く違うものでしょう。
・師匠の教えを破る時、師匠にとっての喜びである理由
お花畑はだいたい麓にあります。
そのお花畑から抜け出して、1人山頂目指して登って行くと
今まで見てきた色とりどりの風景とは違い、か細い高山植物がチラホラと現れる。
5合目、6合目、7合目・・
頂きに近づくにつれ、草木が一切生えない過酷な環境になっていく。
麓のにぎやかなお花畑と違い、孤独なのです。
頂上からの景色を一人眺めても孤独。
自分以外誰もその景色を知りません。
自分の背中を必死に追いかけて頂上まで辿り着く人がいるとしたら、
今まで一人で見てきた景色を一緒に楽しむことができる。
もしかしたら、同じ景色を見ているはずなのに、自分とは全く違う、想像すらできない話が聞けるかもしれない。
それが実現すればどれほど興味深く、そして楽しい時間になるのか?
ワクワクが止まらない。
師匠にとって自分の教えを破られる時、この上ない喜びなのです。
【守破離の離】青は藍より出でて藍より青し・・守破離の本質はそこにある
ここまで話したら、守破離の離について解説も必要ないでしょう。
守破離の破が達成された後、もっと高い山に登りたくなる。
もっと高い山の頂きであれば、更に見たことのない世界が広がっているはずです。
師匠の背中を追いかけて登ったように、また違う山頂を目指してチャレンジすればいい。
守破離の守とは、師匠と同じ景色を見ること。
守破離の破とは、その景色を見て、匠とは違う自分の想いが溢れ出すこと。
守破離の離とは、更に高い山の頂に登り、そこから見える景色を見て新しい何かを見つけること。
「根本さんの考える守破離ではなかなか成功できないと思います!」
そんな声が聞こえてきそうですが。。
僕は今、成功法則についての話なんか一切していません。
徹底的にパクってるだけでは成功できないよなんて話もしていない。
僕はただ、師匠の表面的な言葉や行動を真似るだけでは、守破離の意図するものから外れていくように思えるのです。
守⇒破⇒離と繋げるための守があるだろうし、
守というものに対して丁寧に向き合うことができれば、自然と破から離へと繋がっていきます。
6,大切なのは愛かお金か?・・について、この2つを公平に比べ、かつ階層を意識して考えてみましょう。
あらためて質問します。
愛とお金、どちらが大切だと思いますか?
いかなる時も体罰はNGですか?それとも場合によっては有りですか?
褒めることと叱ること、どちらが大切だと思いますか?
死刑制度をどう思いますか?
お金の使い方を知らない頃から、愛というものを注がれて今のあなたがあるのではないですか?
この世に生を受けた時、誰もが受け身の立場でしかないし、お金を上げるから俺を育てろとは言わないでしょう。
この世の誰もが、無償の愛というものを必ず受け取っています。
愛というものに一切関与しない種族であったなら、人類はここまで存続して来なかったでしょう。
愛という遺伝子が引き継がれている証だと思います。
このような「愛の方が大切である」という主張に反論するとしたら・・
愛ではお腹は膨らまないとか、お金があれば何でも買えるとか、そんな麓の話をしても議論が噛み合いません。
遺伝子レベルの話をぶつけて階層を合わせないと。
愛という遺伝子である必要がないかもしれない。
身を守るための何かを代々受け継いでいる生物も存在するでしょう。
サケは一度に3000個ほどの卵を産んですぐに死んじゃうそうです。
生まれてくる赤ちゃんを守りもせずに。
大量の卵を産むことで、そのうちの数匹が成魚になればいいのです。
子孫繁栄のために愛など必要としていない。
ただ人間はどうでしょう?
サケと比べ、人の赤ちゃんは一度に3000人も生まれません。
だいたい一人。
1人の赤ちゃんに目いっぱいの愛情が注がれるんですね。
結局、最後に愛は勝!のでしょうか?
階層を上げればあげるほどお金じゃなくて、愛が必要という結論になってしまいます。
人類が誕生した頃にお金なんてものはもちろん、それに代わるような概念もなかったでしょう。
でも、おそらく愛というものはその時からずっとある。
なので、お金の方が大切だと結論づけるには、麓の話に持って行かないと駄目みたいです。
・・と言うか、ですね。。
そもそも、この問題は愛とお金、双方の概念が存在する階層で議論するべきものですね。
遺伝子だとか人類存続だとか、反則です。
自分で面倒くさい話の大風呂敷を広げておいて何ですが、、
こういう不公平な議論にはまったく意味がないのです。
階層を上げることで新しい発見もありますが、
愛だけの独壇場になってしまいます。
では、仕切り直して・・
神様が、人類存続のために愛というものを授けたのだとしたら、
今、少子化に悩まされている日本国は、人口増加のために何が必要だと考えるでしょう。
日本国が、愛が必要だなんて言っても何も始まりません。
銭ですね。銭。
そもそも、この愛なのか、お金なのか?って話は、僕たち一人ひとりにとって必要なものを問うているのか、
それとも人類や国家にとって必要なものを問うているのか?
同じ土俵での議論でないと滅茶苦茶になってしまいます。
何者にとって必要なのか?によって答えも違ってくるでしょう。
しかし、目の前にある問題をフラットに捉えるために、
どの土俵で議論するべきか?・・という議論も必要になってきますよ。
本当に面倒くさい話をしてますね、僕は。(笑)
7,最後に。
面倒くさい話のラストスパートです。
僕はね、、普段こんな面倒くさいことをグダグダ話さないですよ。(笑)
嫌われちゃいますからね。
僕は、この世はインチキだって本気で思っています。
目に見えるもの、形のあるものは全て、架空のものというのか、実際にはないものというのか。。
空間自体が嘘だし、その空間に存在する全てのものが嘘だと思っています。
この世の果てについて考えたことありますか?
この世の果てに線が引かれていて、そのラインまでが「この世」
じゃぁ、手を伸ばしてこの世の果てのラインからはみ出たら、
そのはみ出た空間には何があるの?
だから、この世に広がる空間は無限なんですね?
理屈では何となく解りそうというのか、納得させられそうというのか・・だけど。。
時間もそうですね。
未来は永遠に続くのは理解できるけど、
過去はどこまで遡れるんだろう?
過去はいったいいつから始まっているの?
その始まった〇〇時〇〇分〇〇秒のその時の1秒前はなかったの?
やっぱりこの世って、、インチキだよね。。
・・なんてことを物心ついた頃から考える男の子だったんです、僕は。
そんな僕の話をちゃんと聞いてくれる人なんていない・・
ってことに気づいてからは、あまり話さなくなりましたね。
聞く方も面倒くさいでしょうから。
この本のタイトル通り、、今これを読んでいるあなたは、役に立たない面倒くさいことを深く考えるのが好きな人でしょう。
それは紛れもなく「才能」です。
僕は世の中の何かに対して鬱憤が溜まっていて、頭の中がゴチャゴチャしていて。
だからこそ、こんなどうでもいい話を長々と綴っているのかもしれない。
そんな面倒くさい奴の面倒くさい話を、フラットに捉えて目的と手段を整理して、大宇宙と小宇宙の間を行ったり来たりしながら、最後まで読んでしまえるあなたには感謝しかない。
人は何かを勝手に思い込んで悩む必要のないことで悩み、争う必要のないことで争い続けています。
この混沌とした世の中で彷徨っている人たちの救世主に、
あなたであればなり得ると僕は思っています。
最後まで読んでいただき、どうもありがとうございました。
根本 優