仏教に学ぶ生き方、考え方「お願いされるということ」
日本には多くの「神社仏閣」があります。
そして有名で大きいお寺から地方の小さなお寺まで、誰かの想いや願いが元になって作られ「今に至る」わけです。
それらは「平和な世の中」を祈願したり、「仏教の教えを広く伝え」たりするために建てられたものが多いでしょう。
また故人様の「供養や菩提」のために建てられたものもあると思います。
さらには「修行を行う場」として建てられたものもあります。
それらには言うなれば人々の様々な想いがあるわけです。
そこでお参りしていると、ついついこちらが「故人様の慰霊」をしたり「願い」をかけたりすることが多くあると想います。
でも実は真宗では、「立場が逆」になると考えられているのです。
つまり、私たちは実は「願われる存在」であるというのです。
煩悩が多く悟り少ない私たちのために、「阿弥陀如来様」が多くの願いを建てられ、未来に生まれてくるであろうの衆生まですべての人を救われようとされているわけです。
ということは私たちが生まれる「はるか昔」から私たちに「願いがかけられている」わけで、それに比べたら私たちの願っていることはほんの「微々たるもの」であると言えるでしょう。
ということは仏様にこちらが願うというより、願ってもらえることにただただ「感謝を申し上げる」ほうが理に適っているといえるでしょう。
そしてその願いをそのまま「丸もらい」していただければいいわけです。
そしてどんな事が起きようが「阿弥陀如来様」にすべてお任せして、「安心」して過ごしていければいいのではと思っております。
☆今日の一句☆
願われて
思うは感謝
ばかりなり
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