ほとけさまのおしえ「法を説かないお坊さん」
御同行様との雑談の中で「どこどこの〇〇寺のお坊さんはお経だけ唱えてさっと帰っていく」とか「説法が難しくて長い」などと言われることがあります。
それを自坊の住職に伝えるということは、「もしかして褒められているのかな」とうれしく思う反面、「いたたまれない思い」になるときもあります。
例えばこちらがいくら仏法を伝えようとしても、それは「聞き手」があってこそなのです。
そして聞き手を前にしていても、仏教の教えを「心から求めでおられるかどうか」は実はわからないのです。
その方に「長い説法」などしようものならすぐに嫌がられてしまいます。
また説法すること自体が「慢心(まんしん)」から出ているものかもしれません。
「この私が仏教のなんたるかを教え導いてあげましょう」などと思うこと自体、特に真宗の僧侶であれば慎まなければなりません。
そんなことで説法をしないお坊さんも実は「かなりの数」いるのです。
でも私は説法をしないお坊さんを決して「責めたり馬鹿にしたり」することはしてはならないと思います。
というのは衣を着て袈裟を掛け、手を合わせてお称名をお唱えし、お寺の住職として皆さんの仏事に同席する。
もうそのことだけで、すごい「決断」をしていると思うからです。
実際、かなりの自由を束縛されますし、仕事も制約されたり辞めたりしなくてはなりませんし、何日間も寺を留守にすることもできません。
そんな中で御同行様の仏事を「最優先」に考えているだけで実は頭が下がる思いなのです。
そして勤行を執り行いお称名をお唱えするという姿勢を示しているということ、そのことだけでもうすでに「法を説いている」ようなものだと思うのです。
そしてお付き合いのあるお寺の住職さんがどんな人であったとしても、その後ろ姿から「仏教のなんたるか」を感じていただければありがたいなと思うのです。
☆今日の一句☆
お坊さん
背中で説きゆく
法を聴く